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九天九地6:思うに任せぬ、難事業

水山蹇!

「これは…四大難卦の一つが出てしまったな。水山蹇(すいざんけん)だ」

「と、いいますと?」

「行く手には非常な危険がある。険しい山道に、更に激しい水が流れて行く手をはばむという、非常に困難な卦だ。この場合の水は、雪とか氷とも解釈できるから、おそらく半年は雪が消えないような場所なのだろう。また、蹇の卦は坤(こん、ひつじさる=西南)によく、艮(うしとら=北東)によくない、と相場が決まっている。」

「非常な難所であることは、承知しております」

「普通ならば行くのをやめるべきだが、二爻だからなあ。王の民たるもの、艱難辛苦があろうと、正道を貫けば生きる道もあろうというもの」

「どういうことなのでしょうか」

「普通ならば、この卦が出た場合は、行くのをやめて平易な道を取るべきだ。しかし二爻変が出ている。この爻変は、たとえ大きな苦労であっても、それが天下国家の為と思えば、また問題は別、ということだ」

「私は、どうすれば良いのでしょうか」

「大変な難事業であるのは確かだから、あえて行けとか、無事にやり遂げられる、とは言えない。しかし、若い頃の苦労は買ってでもしろ、とも言う。小器用にまとまらず、身を粉にして勤め上げれば、その先には幸運が待っているだろう。大きな苦労も無駄にはなるまい、ということだな。苦労は避けて通る道もあるが、あえて立ち向かえば、大きな富を手にできる、ということだ」

この一言で、若い清三郎の心は決まった。苦労の末に富が手中にできるなら、やり甲斐があろうというものだ。千枝に礼を述べて帰宅した清三郎は、嘉兵衛に告げた。
「この開発事業は、親子二代がかりで、きっとやり遂げましょう」

「そうか、清三郎、実はな、わしは山から帰って以来、よく夢を見るようになった。山中に仙人のような白髪の杖をついた老人がいて、わしを手招きしているのだ。あれはわしに、この山を開けという天命が下っているような気がして、どうにも忘れられないのだ。お前がやらないならば、わし一人でも開発に挑む積りだった。」

嘉兵衛の覚悟を初めて聞いた清三郎の決心は、更に固くなった。嘉兵衛父子は、南部藩江戸屋敷へ出向き、鉱山開発の件を正式に請け負った。商売人らしく、計画も緻密である。

江戸の店は娘婿にあたる利兵衛に任せ、嘉兵衛と清三郎父子が南部藩へ出立したのは、嘉永元年(1848)のことである。

南部藩の諸問題

話は少し遡る。前年の弘化四年(1847)のことである。鉱山開発の話とは別に、嘉兵衛と清三郎は、盛岡の南部藩屋敷を訪れている。

これは実は、嘉兵衛が南部藩に用立てした、さまざまの普請代金の未払いぶんが、四万両の巨額に上ったため、その取り立てが目的だった。
未払い代金の中には、先年、嘉兵衛が仲介役となって長期年賦払いと決めた、佐賀・鍋島藩への米の代金も含まれている。

これら未払い代金をやりくりする為に、嘉兵衛は友人から金を借り受けてもいた。これ以上、南部藩の未払いを、放置するわけにはいかなかったのだ。

南部藩の財政状況がここまで逼迫したのは、確かに寒冷地のこととて、凶作の年が多かったこともあるが、南部藩側にも原因があった。

藩の重役の権力闘争と放漫財政に加え、大阪の豪商たちと結託した重役たちの汚職も、藩財政の悪化の原因だった。

嘉兵衛への借財に対しては、南部領内で製鉄事業を起こしてもらい、その資本金を藩が負担することにより、借金返済に充てたい、という申し出であったのだ。

多少、胡散臭い感じもする計画で、これが果たして純粋に、「天下国家の為」という、大義名分が通用する話であるかは、疑わしい点もある。
朝元斎の易や、嘉兵衛の夢に出てくる老人も、南部藩のドロドロした内部事情を考えると、不安が兆してこようというものである。

しかし、巨額の借財を、何とかして取り立てねばならぬ嘉兵衛父子としては、四大難卦と言われても、良い方へと解釈して、希望を持ちたくなろうというもの。
このように、そこはかとない不安はあったものの、嘉兵衛と清三郎は、南部鉱山へと旅立ったのだ。

嘉永元年(1848)の9月、この季節であるから、現地へ到着してまもなく雪が降る。
雪に埋もれて通行不能になる前に山を見学し、最初の冬は雪の少ない室羽鉱山で、鉱山開発の見習いをして、仕事のノウハウを身につけよう、という計画である。

境沢への険路

調査の結果、二人が開発の拠点と定めたのは、境沢鉄山である。
後の調査では、この場所は、岩手県下閉伊郡岩泉町の、摂待川付近であろうとされている。

雪深い岩手から、更に山奥に入った境沢は、まさに秘境。厳しい天候と生活物資運搬の困難さは、大変なものであった。
周辺の村落は、米がめったに入手出来ないので、楢の実や橡の実を常食していた。

境沢での仕事は、坑夫八百人余りの、生活物資の搬入から始まった。
米、麦、味噌、醤油から、鍋、釜、寝具類まで全て、盛岡から140キロ余りの道のりを、牛馬の背に積んで運ぶのである。
それも普通の道ではない。まさに断崖絶壁、一つ間違えば千尋の谷底である。

戦争に於いても、実際の戦闘の上での戦術、戦略と同等か、それ以上に大切なのが、兵站だと言われる。
兵站とは大雑把に言えば後方支援で、直接に任務に当たる者が、十分に力を発揮できるよう、食料他さまざまの物資を配給したり、衛生面を守ったり、必要な施設を整える役割だ。
戦争に限らず、どんな仕事をする上でも、必要な食料や生活物資が不十分では、ロクな働きが出来ない。

楚漢戦争に於いて、劉邦が、武術の技では自分よりも遥かに勝る項羽に勝てたのは、ひとえに、兵站の達人であった、蕭何(しょうか)の存在のお陰だと言われる。
他の人物よりも地味な存在で、戦闘への直接参加はなかった蕭何だが、漢の三傑と謳われるには、それだけ大きな功績を残していたのだ。

一方、兵站を軽視したことによる失敗例は、太平洋戦争に於ける、日本側のインパール作戦がよく挙げられる。
現代でも、2022年からのロシア・ウクライナ戦争が、ロシア側にとって思わしくない方向へ行っているのは、兵站の脆弱さにあるとも言われている。

鉱山労働者を前に

更に、父子の苦労は、これだけでは無かった。
当時、鉱山労働者の多くは、いわば流れ者、無頼の徒が多かった。
隙があれば仕事を怠け、酒や博打にうつつを抜かす。

徳川家康の定めた「御山師心得」にも、山で働く人間に、その過去を問うてはいけない。死罪になるような大罪を犯した者でも、山掘りの技術を教え込んで、相応の働きをさせるが良い、となっている。

鉱山開発はきつい労働で、人を集めるのも、容易なことではない。だからどんな人間でも、相応の働きをするなら、多少やましいことがあっても不問に付す、という習慣があった。
いわば、目的の前には、治外法権的な措置も大目に見る、ということである。

こういう人間に多く接したせいで、清三郎も、何となく人相を見分けたり、人使いもうまくなっていったものだろう。

とは言え、弱冠十八歳の清三郎が、八百人を超えるこういう坑夫を使いこなすのは、並大抵の苦労ではなかった。

鉄石発見は幸運の証し?

最初の一年はまさに悪戦苦闘の連続だったが、幸いにして、何十年に一度という暖冬だった。春の訪れも早かったので、この機会を利用し、嘉兵衛と清三郎は、山々を調べて回った。更に、この鉱山開発の見通しを建てる為である。

前に、嘉兵衛が境沢鉱山の下見に行った時に、大きな石がゴロゴロしていて、鉄片を近づけるとピッタリと吸着する、ということを発見していた。

この鉄分の多い石を「ヤケ」と言うのだが、この発見は、付近に大きな鉄の鉱脈が存在することを意味している。
嘉兵衛の聞いてきた話では、表面に現れている砂鉄を取るだけでは、すぐに鉄は尽きてしまう。しかし、この鉄石の鉱脈は、深く地中を走っている。
ヤケに添って坑道を掘り進め、鉄を採取してゆけば、何十年にもわたって、この山は鉄を産み出し続けるであろう、ということだった。

大きな鉱脈への期待を膨らませる清三郎だったが、ある日、思いがけない発見をした。

ふと思いついて、例の鉄石、ヤケを溶かしてみたのだ。製品にする前段階のテスト、というところだ。

確かに、この石は溶ける。
溶けはするのだが、アクの多い粘っこい鋼滓が生じ、どうにも始末に負えないのだ。いくらも溶かさないうちに、たちまちふいごの風穴が塞がり、炉壁にもへばりついて、仕事が出来なくなってしまう。
何度試してみても、無駄に燃料を食うばかりで、炉を壊すのがセキの山なのだ。

これは鉱物の精製過程で出る「おり、かす」であり、現代でも産業廃棄物として、処理の仕方が決められている。この鉱滓の多い鉄鉱石は、いわば不良鉱石であり、当時の技術としては、始末に負えないシロモノだ。

清三郎は、嘉兵衛にこの結果を告げ、これ以上、坑道を追うのは止めにしよう、と言った。

初見では宝の山かと小躍りする気持ちで、険しい道をここまで来た清三郎だった。しかし、宝の山は見せかけ、何となく前途には、暗雲が立ち込めているようでもある。

九天九地7へ続く

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