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手帖から消えたページ #5「映画館」

手帖から消えたページが立て続けに数枚見つかった。そのうちの一枚が食べかけのクッキーの銀紙の中にあったのは、いったいどういう経緯なのだろう。油まみれになった紙は捨てるよりほかなく、せっかく記録した一日から意味が失われてしまったみたいで、悲しくなった。

でも、そんな感情もどうでもよくなるくらい「おそろしいこと」があった。

今日の日記は、うまく書ける自信がない。でも、大切なことであるような気がするから、書いておこうと思う。


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■8月×日 (破られていないページ)

映画館はビルの最上階にあった。ガラス張りのエレベーターから見える景色はあっという間に足の下に消え去り、気がつけば体ごと空に投げ出されたように感じた。チン、という秘密めいた音とともに扉が開くと、甘いポップコーンの香りと、燃えるように赤いビロードの空間が私を包み込んだ。

昭和の終わりに造られたというその映画館は、良くいえば和洋折衷、悪く言えば悪趣味な、独特の雰囲気をかもし出していた。古くからこの映画館を愛する常連客は、多少へんてこなものを見せられても動じないようになっている。

へんてこなもの、というのは、映画の内容ではない。

たとえば今日、ここの従業員の人たちは皆スーツの上に青いはっぴを羽織っているけれど、そんなものはまだ生易しい方だし、受付嬢がキツネのお面を付けていても、マダムたちは「あら、今日はキツネなのね」と軽くいなす程度だ。

ともかく、そういう映画館だった。

ひとり客だった私は、出入り口に近い、M-13の席を確保した。場内に入ると、隣の席に、すでに白髪の男性が座しているのが見えた。

見覚えのあるその背格好は、すぐに森さんを彷彿とさせた。森さんは、前の職場で親しくしてくださった方だ。五十代とは思えないほど老けた印象で、ぎすぎすと痩せているのに顔だけはふっくらと丸い。おっちょこちょいだけど、みんなにやさしかった、森さん。

なんとなく嫌な予感がした私は、受付に戻り、席を変えてもらった。

「なにか、不可思議がありましたか」と、キツネのお面の受付嬢がたずねた。

「いえ、今日はめがねを忘れて」などと私はうそぶき、今度は、うんと離れた前の方の席にしてもらった。

C-7と印字されたチケットを握りしめて通路を進むと、またそっくり同じ後頭部が目に入った。まさか、と思うと同時に、背筋がすっと寒くなるのを感じた。

まただ。また隣の席に、あの人が座っている。

場内はすでに暗くなり、予告編がはじまっていた。私は前屈みでC-7に歩み寄り、その人物を凝視した。スクリーンの光が一瞬、薄闇の上にくっきりと輪郭を描いた。間違いなく森さんのシルエットだった。

意味が分からなかった。ほんの数分の出来事だった。劇場を出て、席を替えてもらい、戻って来たら、またあの人がいる。さっきあの人は私に気付いていない様子だったが、移動したのだろうか? 何のために? どうしてこの席に?

それとも、最初に見たのは別人だったのだろうか? 

森さんがチラとこちらを見たような気がした。気色の悪さに鳥肌が立った。私はすぐに劇場を出た。心臓が高鳴っていた。足がもつれて転んだはずみに、机の上に並べられた映画のチラシを床にぶちまけてしまった。

ロビーのソファで、私は深呼吸をした。それから、子どもの頃からのくせで、手の甲を鼻にあてて鼻血が出ていないか確認した。こういう時はついそれをやってしまう。鼻血は出ていなかった。

ようやく動悸が落ち着いたころ、辺りには誰一人いなくなっていた。うやうやしいはっぴの誘導係も、頭にはちまきを巻いたパンフレット売りも見えなかった。中身のないポップコーンの機械がジジ…と微かに空気を震わせ、ガラスケースの空洞をあたためていた。

私にC-7の席を与えたキツネの受付嬢も、忽然と姿を消していた。

* * *

去年の秋、森さんと最後に交わした会話のことを覚えている。

森さんは律儀に定年退職の挨拶をして回っていた。オフィスの端から端まで、一人一人にゆっくりと時間をかけて。やっと私のところに到達したのは、夕方近くにもなろうかという頃だった。

森さんはまず「申し訳ない」と前置きした。「あなたにずっとお返しできていないものがあるんだ。今日、いよいよ最終日だから、ちゃんと渡そうと思っていたんだけど」

「何でしょう?」
「お返しだよ」
「もしかして、ホワイトデーのことですか?」

数カ月も前のことに、私は驚いて笑った。森さんはばつがわるそうにうふふ、と笑った。森さんがデパートで購入したホワイトデーのお菓子は、どう数えても一つだけ足りなかった。オフィスの女性の人数を勘違いしていたのだ。

森さんは、いつも必ずなにかを間違える。

「あのときは、たすかった。でもね、ごめんなさい。あの、言いにくいんだけど、今日も忘れてきてしまって」
もじもじと告白する様子が、森さんらしいな、と思った。
「そんなの、もう、どうだっていいことです」
と私は笑いながら答えた。
「よくないよ。こう見えても、忘れたと思われるのはいやなんだ」
「いえいえ、もう、忘れましょう」
絶対に忘れないよ、お返しは」

* * *

チン、と音がしてエレベーターが開いた。私はすぐに駆けこみ、爪先の色が変わるくらい強く一階のボタンを押した。

その間ずっと私は、見間違いだった見間違いだった見間違いだった、とひたすら自分に言い聞かせた。絶対に見間違いだった。

ーーだって、森さんは、この春、

            亡くなったのだ。

長年の持病が悪化したのだと聞いた。市内の葬儀場で家族葬が執り行われると同僚から連絡があり、皆で相談して、ささやかな供花を送った。

だからあの人が、森さんであるはずはなかった。

長いこと私は、エレベーターの中で祈った。狭い箱に閉じこめられたような錯覚を覚え、それはどこでもないどこかと、どこでもないどこかの、ちょうど真ん中にひっかかっているような感じだった。

森さんは、いつも必ずなにかを間違える。

でも、絶対にそのことを忘れたりしない。




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■「手帖から消えたページ」

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続きます。


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