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映画「母さんがどんなに僕を嫌いでも」

「母さんがどんなに僕は嫌いでも」という2018年の作品を見た。
いろんな感情が掻き乱された。
映画の中で登場する母親の様な人も、きっと、どこかに存在しているし、実際、事件になっている様な人々の暮らしにもこういう経緯があるのかもしれない。
それに中でも、血が繋がってないけれど、気にかけてくれる『ばあちゃん』の存在はきっと、物凄く大きい‼︎

※下記原作本👇そして、私の文章…ネタバレ⚠️

私自身映画の中で気になった言葉があって「本当に心から笑えたことあったかな?」というシーン。やっと、本当の自分を友人に隠さずに話せたことで得られた自分自身の存在。馬鹿にされて当然だと言い聞かせてるような…けれど、自分のなにが悪かったのか?という葛藤。自分が愛されなかったのは、自分のせいだと言い聞かせる様に生きてきたタイジ。
複雑な感情が描かれていた。
今まで、どこかでやり切れない自分の生きてきた道や、幼い頃からの「どうして?自分は親に愛されなかったのか」や…数年後に連絡が来たと思ったら、繰り返した結婚生活で母親がやっと自分が幸せだと思える人と巡り合い、そのご主人を亡くした母親から連絡が来たことで「期待」した、タイジに、近況や生活をどうしてるか?などの問いはなく、母親は「向こうの前妻側には親族は来てるのに、誰も来てくれなければ格好がつかない。」なんて事まで言われる。期待していた自分に腹立たしさや、寂しさみたいなものを感じていた様に私は感じた。そして、少し癖のある友人(腹立たしいけれどなんだか確信をついてくるキャラクター)に言われる「期待なんかしてたの?」それに対してタイジは「親なら普通、聞いてくるでしょ?6年ぶりにあった子供なのに」というと「我が家の家訓、理解は気づいた方がするべし!親とか子供とか関係なく、理解力がある方が理解していく」って言葉になんだか「そっか」という表情のタイジ。(私もなんだか腑に落ちた。)「寂しかった」とも「聞いてほしい」って気持ちも自分の両親に、母親に期待をしてしまうことは、幼心に両親への愛情を確かめずにいられないからではないか?子供からしたら「親、両親」は絶対的な存在であると思う。私は幼い子供に対しても、子供扱いせずに、対等であるかのような扱いを子供に押しつけて、私の気持ちが分からないのか!と、自分が産んだ子なら自分のこと状況も、わかってる筈なのに!邪魔されるなんてって!って…自分が生きてく為なら、子供に対して考えなど押し付ける親が一定数いるのも、その事によって歪んだ気持ちになったり、親を恨んでしまう事も起こるべくして起きてるのか…と悲しくなったし、誰かが側にいる人達が『お節介』というものが出来ればまた、違うのかもしれない。親、子供がお互い大人になっても「親と子」には違いがあって当然なのだけれど、どこかでお互いに「期待」してしまっている部分、『放っておけない』という呪縛の様なものは、繋がりにおいて必然な感情なのか?関係性や、子供の性格からなのか?親から『当然!育てたんだから』のようなこと言う親も聞くけど理解出来ない。何故虐待してしまうのか?子供に、言葉の暴力や、素手や道具を使い暴力を振るうのか?虐待をしているという自覚あるのか?ただ、自分の腹立たし紛れにするのか?私には全く理解できないけれど、タイジさんって、人のどんな姿をみてもありのままを受け入れることの本質を知っている方なのかもな…って感じます。
原作の本に続きがある様なので気になりますが。。。

本当!!!「大人になる」とかよく使う言葉だけど、大人になりきれない私だってそう‼︎ 親になったから親として『完璧』でもないのは、皆んなそうだし親になっていっぱい初めてを経験するはず…だけど、子供に手を上げるなんて言語道断だと思う。
もし、虐待に遭っている人が気軽に話せるような場所、人がいたら違うのかもなって中々難題。だけど、赤の他人だけど、血は繋がってないけれど、心の支えになるお婆ちゃんが存在したように、そういう心の拠り所になれる人でありたいと思う。本当に色々考えさせられた映画でした。

※原作者であるタイジさんの名前を呼び捨てにして申し訳ありません🙇‍♀️

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