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先生は何故「修学旅行」でディズニーに行かせるのか


小学校や中学校、高等学校におけるメインイベントの1つとして「修学旅行」がある。

児童・生徒が通う学校から距離のある地域に出て、旅行先の観光スポットや文化を楽しんだり、共に学校で学ぶ仲間との絆を深める一大行事だ。

これを読んでくださっている読者の中にも、修学旅行で楽しい思い出を作ることができた方も多いのではないだろうか。


私の場合、中学校は関東方面に行き、国会議事堂や造幣局などを見学した。


だが、修学旅行にて、関東方面に出向く学校が訪れる場所の一例として「東京ディズニーランド/シー」をよく耳にするが、気になったことはないだろうか?


「何故、学びを修める旅行でディズニーに行くのか」と。


以下は、文部科学省が定めた学習指導要領からの抜粋である。

(4) 旅行・集団宿泊的行事
  平素と異なる生活環境にあって,見聞を広め,自然や文化などに親しむとともに,集団生活の在り方や公衆道徳などについての望ましい体験を積むことができるような活動を行うこと。

引用:文部科学省


これをみると、集団生活の在り方(~時に・・・集合!というタイムスケジュール的な面より)という点や公衆道徳(ディズニーパークには一日何万人という規模で来園者が存在するため)の点では適しているとは言えるかもしれない。


一般的に「レジャー施設」や「娯楽施設」とされるディズニーパークだが、この場所が数学旅行の来訪先として選択される理由を「学び」という切り口から書き留めておこうと思う。



まずは、そもそもディズニーパークがどういうものなのかを説明しておきたい。

ディズニーパークは一般的に「テーマパーク」と位置づけられているものである。

以下、経済産業省による「テーマパーク」の定義である。

「テーマパーク」
入場料をとり、特定の非日常的なテーマのもとに施設全体の環境づくりを行い、テーマに関連する常設かつ有料のアトラクション施設(*)を有し、パレードやイベントなどを組み込んで、空間全体を演出する事業所
* アトラクション施設とは、映像、ライド(乗り物)、ショー、イベント、シミュレーション、仮想体験(バーチャルリアリティ)、展示物の施設などをいう。

引用:経済産業省「平成27年特定サービス産業実態調査報告書公園,遊園地・テーマパーク編」


そしてディズニーパークは皆さんご存じのとおり、超巨大なテーマパークである。それが故、多くの要素を内包している。


娯楽やレジャーに留まらず、キャストと呼ばれる従業員のホスピタリティ(接客)や経営/産業的な側面、場所によって異なったエリアテーマにまつわる歴史や文化、アトラクションに用いられている技術やエンターテインメントに用いられている演出、音楽や建築物などなど、全てを把握しきれないほどの要素がある。


この中からどの要素に興味を持って、追求するかは完全に来園者の自由で、もちろん個人個人の興味を強制する障壁はない。


広い空間で自分の好きなように興味を追求できる。


文部科学省が定めた要領に従うことを条件とするため、決まった教科教育を教室という狭い空間で強制的に行わなければならない小学校~高等学校に対し、ディズニーパークではその真逆、来園者の学生における、興味選択の自由が保障されている。


学校内では決してできないこと、保証されていない自由、そして広大なフィールドを得ることができるディズニーは学生にとってこれ以上ない刺激のように思われる。



また、ディズニーパークは「抽象の権化」でもあると思う。


例えば、東京ディズニーシーには、トロンプルイユと呼ばれる騙し絵(トリックアート)の窓がある。

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なんでこれができたかということについて調べたところ、窓にかかる税を逃れるためという説や、芸術家が美的センスを表現するためという説などが出てきたが、確かな答えは得られなかった。


おそらくこの解釈はゲストである私に「委ねられた」のだと個人的に考えている。


情報が拡散されていない抽象的なストーリーがあると、個人の解釈/考察や自分で情報を得ようとする主体性がうまれる。


ここまで複雑なことでなくともいい。


例えば、ディズニーパークを後にするときについて考えてみる。

・なぜ「またいきたい」と思うのだろうか?→(問題提起/仮説

・ディズニーパークは、ゲストがパーク全体の三分の一しか体験できないような施設数を置いている→(情報収集

・今日、自分が訪れた施設数は確かに全体の三分の一だ→(分析

・ディズニーに「またいきたい」と思うのは必ず「~に乗れなかった」などの後悔をさせるようにできているからだ→(結論→別の問題提起へ


結論に正解など求めない。極端なことをいえば、「シンデレラ城はミッキーの城なのではないか?」という仮説でもいい。立てた仮説に対して主体的になり、論理的な思考を持つ。問い(置いてあるもの)が抽象的なのだから、結果より過程の方が大切なのだ。


これは、文部科学省が定めた「探求的な学習」におけるプロセスと丸々合致する

探究的な学習とは、図のような問題解決的な活動が発展的に繰り返されていく一連の学習活動である。
①【課題の設定】 体験活動などを通して、課題を設定し課題意識をもつ
②【情報の収集】 必要な情報を取り出したり収集したりする
③【整理・分析】 収集した情報を、整理したり分析したりして思考する
④【まとめ・表現】気付きや発見、自分の考えなどをまとめ、判断し、表現する

引用:文部科学省「今、求められる力を高める総合的な学習の時間の展開」


ここにも、やはり正解が大事というような記述は見られない。

中学校卒業後就職する学生は、保護がない社会という場に出る。社会には学校のような正解のある問いよりも、正解のない問いの方が多い。


タイムリーな話題を出せば、今を生きる人は皆等しく「今までの生活とコロナ感染拡大防止をどう両立させるか」という難題に直面している。未曾有の事態であるから、正解などもちろんない。


今後そのような社会を生きるにあたって、問いを立てるために1+1のやり方を学ぶ教科教育があるが、今の学校教育は1+1=2なのか?という問いを立てる力が圧倒的に不足しているように思われる。


この抽象を探求するという面も、やはり学校ではできないことをできるところに学びの意義があると思う。


修学旅行先でディズニーパークを訪れることによって、広大なフィールドで自分の好きな要素について探求することができ、学校の勉強以外の「勉強/学び」をすることができる。


結論として


・狭い教室に対する広大なパーク、強制された学びに対する興味選択の自由

・明確な答えのある問題に対する答えのない抽象的な問い(ストーリーや感情など)

・勉強=教科教育 という考えの払拭


以上の点がディズニーが修学旅行で選ばれる真の理由ではないかと考えられる。


ディズニーパークに足を踏み込む時点で問題は投げられた。未来ある若者たちよ、探求せよ。


ディズニーランドは教科書だ。

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