(魏志倭人伝・畿内説)南/東の読み替えを前提にした場合の違和感・矛盾

 畿内説を採る方の多くは「不弥国の先は、「東」とするべきところ「南」と認識してた」と解釈し、不弥国の先の方角は読み替えるべきとする。それに関する自分なりの直接的な評価は卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説 (畿内説の根拠について)に書いた。

 ただ問題は、その方角変換を前提にしてしまうと、そこから派生すると思われる複数の説明にも違和感を感じてしまうことだ。
 具体的には、寺沢薫「卑弥呼とヤマト王権」を読んで最初に感じた違和感を例に挙げてみたい。
 寺沢氏はご自身の説が畿内説と一括りにされるのが心外なようで、「自分は畿内説の中では少数派」としている。ただ上書籍その他で「邪馬台国は畿内(纏向)以外ありえない」とされているので、素材にさせて頂こうと思う。

 「南」を「東」に読み替えた場合の歪(矛盾)は、狗奴国その他、周辺のクニグニなどとの位置関係が理解しにくくなることに一番表れているように思う。

邪馬台国と周辺のクニグニの位置関係
邪馬台国への行程と地図

1.女王国より北

 畿内説を採った場合、「戸数や道里はほぼ記載できる」とする女王国から北(西)のクニグニと、「それ以外の遠く隔たり、詳しく知ることができない」クニグニはそれぞれどこになるのだろう?
 「戸数や道里はほぼ記載できる」割には、不弥国までの「戸数や道里」の記載に対して、「邪馬台国」に至るクニグニの「戸数や道里」記載の無さが際立つのでは?
 南(東)にある狗奴国は、濃尾平野一帯の部族的国家群を想定しているようだが、この一帯は土器流入も含め敵対国ではないのでは?
 むしろ、纏向関連資料には土器の流入も多く交流が盛んだったことを強調する記事が多い。
 女王国の北にある、一大率が置かれた伊都国に相当するクニがどこなのか気になるが、「卑弥呼とヤマト王権」では、『大率の職掌は女王国以北の諸国(西日本の主な部族的国家)を検察すること・・・卑弥呼政権の中央・地方の支配関係が思いのほか広域に及び』と、方角の読み替えが前提になっており、畿内からイト国を支配していた解釈になっていた。
 感覚的にはこれだけでもかなり違和感があるのだが、

2.女王国より東、海を渡ること千余里

 この部分について「卑弥呼とヤマト王権」では、『「女王国」の「東」(実際は北方)の「渡海千余里」の地、王権の勢力が及ばない国々は、列島の東北一円に存在するとイメージされていたに違いない』(P.389)とここでも方角の読み替えを前提にしている。
  しかし上の「混一疆理歴代国都之図」を根拠に、『女王国の北に伊都国その他のクニグニがあるとするなら、女王国の「東」(実際は北方)というのは東北一円』ではなく、日本海側になってしまうのではないだろうか?
 どちらにしろ、「海を渡ること千余里」のクニグニとして東北一円をイメージするのは無理があるのではないか?

混一疆理歴代国都之図

3.その(女王国の)南に狗奴国

 方角の読み替えを前提にすれば、狗奴国の第一候補として、地理的には伊勢湾沿岸部や濃尾平野一帯が考えられる。
 「卑弥呼とヤマト王権」では、候補地として赤塚次郎説を引用している。 赤塚氏は、濃尾地域の土器などの特徴的な文化の独立性とその畿内への流入を狗奴国比定根拠にしているようだ。
 寺沢氏は「3世紀時点では、畿内系土器の拡散はより政治的な、伊勢湾沿岸部系土器などの拡散はより経済的・社会的な理由が大きいのでは?」と一部疑問を呈し、更に「濃尾平野一帯の部族的国家群(狭義の狗奴国)のヤマト王権への参画を契機に、それまでの反抗的姿勢をとり続けてきた「広義の狗奴国」のクニ・国にも王権に帰順する状況が見られるようになった(P.393)」としている。
 つまり、部分的にヤマト王権に反抗する「広義の狗奴国」のクニグニがあったのだろうが、最終的には王権に帰順するようになった。
 ということなのだろうが、その時期をどう見ているのか分からないし、大した対立でないのであれば、卑弥呼がわざわざ帯方郡まで支援要請の遣いを送るだろうか?
 土器拡散について、政治的理由と経済的・社会的理由を区別して捉えるのは賛成だ。自分は、モノの流通・情報(文化など)の伝播については、政治的な支配関係とは分けて考えるべきだと思っている。
 とすると、寺沢氏の伊勢湾沿岸部や濃尾平野一帯を狗奴国に比定する根拠は見えなくなる。
 また、九州候補地については『畿内ヤマト説の立場からは』狗奴国の候補とはなりえない(P.381)としてるので、九州説のロジカルな棄却理由は分からない。

 自分は尾張・伊勢湾一帯は奈良盆地内と基本的には共存関係にあったと想定しているので、敵対関係にあったという狗奴国の比定には無理があると思っている。

4.1~3から更に派生する疑問・違和感

4-1.西日本地域支配

 自分としては、1~3だけでもかなり違和感があるのだが、敢えてそれらを棚上げして、畿内にある邪馬台国をどうイメージできそうか見てみる。
 「卑弥呼とヤマト王権」によれば、2世紀末のイト倭国体制から、卑弥呼共立により、少なくとも西日本全域をカバーするような領域を持つ倭国体制(新生倭国)へ倭国再編の政治的決断がなされたとしている(P.271)ので、3世紀の卑弥呼の時代には西日本全域を政治的にカバーしていたイメージになる。
 すると倭国から半定期的にコンタクトしていた帯方郡との交流航路は、卑弥呼共立前後で変わったことになるが、魏志にその言及が無いのは不自然ではないか?
 又、交流相手から更に片道2ヶ月もかかる遠方に移動する合理的な理由は何だったのだろう?畿内から片道2ヶ月遠方の、伊都国にある一大率をコントロールできたのだろうか?
 それだけ遠方のクニをコントロールできたとすると、纏向から鉄器がほとんど出土しないことや帯方郡の遺物が皆無というのは不自然ではなかろうか。纏向の出土品を見ると、北九州からの出土品の雰囲気とはだいぶ違うことが感じられると思う。

4-2.卑弥呼の死後の状況

卑弥呼の死後の状況

 自分には、このような事件は3世紀の九州北部のイメージの方が自然に思えるのだが、纏向周辺で起きたのだろうか?
 ちなみに「卑弥呼とヤマト王権」では、「男王を廃して台与を擁立する際は、狗奴国に属する主要部族的国家の王権への参画がセットで決定された可能性は高い。(P.391)と、纏向~伊勢湾沿岸部や濃尾平野一帯を含めた地域での殺戮と見ているようだが、これは畿内説を前提にしているので、もしその前提が間違っていたら、起きてないことを証明しようとする「悪魔の証明」になってしまう。
 勿論、このような騒動があった可能性を棄却するのはほぼ無理だろう。

 以上、1~4まで、邪馬台国畿内説を前提として全体的にどんなイメージが描けそうか、あるいは違和感があるか列挙してみた。
 自分には、これでは話がややこしくなるだけで、これだけの疑問・違和感を派生するような前提、「南と東の方角の認識違い」については再考すべきではないかと思うのだが、どうだろう?
 ちなみに、九州説を採った場合、どのような疑問や違和感が生じるか考えてみると、おそらく「水行」の行程ぐらいしか出てこないのではなかろうか?

 そしてその「水行」行程の解釈に伴う矛盾に関して納得できる説明が皆無ならともかく、結構説得力のある説もあるので、自分はそちらを取りたい。
 その内容に関しては、卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説 (魏志倭人伝の解釈についてに纏めてある。

魏志倭人伝の解釈について

九州説について

畿内説の根拠について

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