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救済と痛み

創作活動というもので惑っている。自分を表せるものが評価されるとよいのだと思っている。そのアウトプットがよりよくなるためにいろんなもののインプットが必要という。

私は私のセンスというものを信じている。過信しているがゆえに受け付けられない作品が多くあることが苦であることを持っている。自分を表すために、自分の好きなもの以外を入れるところに矛盾を感じて手を止めてしまう。いろんな可能性を見いだせていないからだろうとは思う。自分はあまりにも有名であるものやそうでないものの作品を知らなさすぎる。

だからあまりにも底辺で満足しているところを自己承認している。好きなものだけを追って生まれるものが今以上を生むことなどない。専門学校に通い、これを見にいけと言われるたびにまわりの空気を買って行かない選択肢を取ってしまう。その精神をしている時点で、というやつである。

今までの創作になんの自信も評価も無い。人間性的に欠けているがゆえ陥っているだけのこと。そう、この循環から抜け出せずいる。それが若いうちというものだろう。色んなもので言い訳をしてなにもやってこなかった。しかし、生み出してきたものは確かにそこに存在していた。たとえ自分だけしか満足していないものだったとしても。自分のために描いてきたことは事実だ。だからそれを愛することに努めたときなにかが見えそうになる。

就活をするにあたり今までの自分を見失って今があるゆえ、振り返るときに困惑をする。いつだって誰かの承認を求めてきたのだとわかる。10年以上は闇の中にいた、そう自覚していたほどに暗闇の視界で「自分」が自分でわかると思うのかと問いかける。そう、問いかけ続けてきた。そしてなぜ今新しい自分を得て未来を見ようとしているのか、なぜ鬱を克服した先に自分が立っているのか困惑しかない。

なぜ描き続けていたかを思い返すとわかるはずだ。あまりにも闇にいたため、あまりにも孤独に耐えられなかったため、自分の中に俯瞰で見ていた自分と本来の自分なるものが常にあったためそのビジュアルを描いた。あまりにも友達が欲しいため仲間がたくさんいる主人公を描いた。そこから始まった。救済だったのだ、今の今でも、なにもかもが。

ではなぜ今も描いて救われていることになっているのだろう。一体自分に何があったのだろう、「許される」ところにたどり着けたのだろう。そういう運命だったとしか思っていなかったが、罪が洗われたのかもしれない。ずっと贖罪だとして過ごしてきた。救われる感覚すべてが裏切りを生むジンクスは決して消えないだろうが、描いていて救われていることは確かだ。

すべてが贖罪だった、復讐心だった。環境のせいに、友のせいに家族のせいにしてきた。「自分のせいではない」恨みのストレスを創作にぶつけていたからだ。復讐からは何も生まない。晴れた今の自分にしたいことなど、できることなどわかろうはずもなかった。教養がなにもなかった。解き放たれたら無となる定石であり、路頭に迷う未来そして現在。

生があるだけでいいとは思う。だが自分が足りない、意思が足りない。目的を失って自分は気付かねばならない。何のためであるかを思い出さなければ、作らなけれなならない。いつだってしたいと思うことを内なるものが規制してくる苦痛に苛まれてしまう。描き続けている意味を思い出さなければならない。信念を取り戻さなければ死人から抜け出せない。

復讐の中にいた自分がまだ自分にいるのだろうか。思い出さなければならないのだろうか。闇のおかげだとでもいうのだろうか。誰がそれを肯定しただろうか。今救いとなっている者達に、自分が何ができるのだろう。それに気付きたい。ただ自分は救いへの恩返しがしたい。そのために、生み出せるものを生み出したい。

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