6月2日「違和感や辛さを越えた先の喜び」

今日も青空。風も強くて気持ちよかった。
まだ寝違えた首は少し痛むけれど、しっかりメンテナンスしてもらってだいぶ身体が楽になった。
やっぱり、定期的にメンテナンスをしてもらうことは大事だと改めて思う。
年齢的にもいろいろと不調が出てくるころなのだろう。
これまで以上に自分自身を大事にしていかなきゃ。

さっきヤフーニュースで、対面授業が怖くて通学できなくなった、という記事を読んだ。
コロナ以前は対面授業が当たり前で(そもそも「対面授業」なんていう言葉さえ使っていなかったと思うけれど)人と会うことが「不要不急」とされてしまったし、面と向かって人と話すことが少なかったことで、もともとコミュニケーションが苦手だった人たちはその傾向が助長されたのだろう、とのこと。

うん。確かにそうだろうな。マスクもしてて顔の半分以上見れなくて表情もよくわからないという状態が当たり前のようになっているしね。

オンライン授業やオンライン会議になって嬉しかった人たちもいるだろうし、逆の人たちもいる。状況が一変したことでそれまで「自分はこういう人間だ」と思っていたのとは全く違った自分を知ることになった人も多いだろう。

それぞれの状況で辛かったり苦しい思いをしている人もいっぱいいると思う。
しんどいと思ったときに「なんで辛いと感じているのか。何に対して苦しいと感じるのか」、自分の心の内をじっくり深堀りしていくことが大事だと私は思っている。

自分も若い時は、そんな風に深堀出来るような余裕はなかった。
ただただしんどくて、意味がわからなくて。
周りは楽しそうなのに、自分だけおかしいのかな?って思ってた。
誰かに相談しようとも思わなかったし、というかそんなこと考えもしなかった。
ずっと、周囲から見られてる自分像と自分の感じる自分との違和感をもったまま生き続けてたら、父の死をきっかけに壊れてしまった。
無意識のまま頑張ってきてたことで溜まってた「無理」が決壊したんだろうな。

でもそれがきっかけで「泣く」ということもできるようになっていったし、少しずつではあるけれど、何年もかけて幾重にも纏っていた「作り物の自分像」を剝がしていけたように思う。
今でもまだ纏っている部分もあるし、よくわからないことがいっぱいある。
でも少なくとも10代20代の頃よりは生きやすいと感じる。

結局のところ、「辛い。しんどい。」とか違和感を覚えることに対して目を背けずに、しんどくても自分で自分を深堀していくしかないんだと思う。
何に対してその違和感が働いているのか?っていうのは、自分が自分を生きやすくするための答えであるから。

世界が一変したことでよりそういった違和感を感じやすくなっている。
コロナにより「当たり前」が魔法のように消え去って、誰も正解なんて教えてくれないということがわかってしまった。
自分で正解を決めていくしかない。

「当たり前」とか「常識」なんてその時の時代に都合のいいように作られたものにすぎない。そこに頼って生きるのはある意味ラクだけれど、それは依存というものだと思う。
そうやって国というものはどの時代も人々を知らぬ間に依存させ、コントロールしてきたのだろう。
ここからの世界を生きやすくするためには、やはり自分で何事も判断して一つ一つ自分にとって違和感のない方を選択していくしかない。
自分と違うからといって人をむやみに傷つけたりするのはもちろん論外。
そうではなく「自分」を軸にして生きていけば、自然と他人がすることには余計な干渉をしなくなって、共生できるようになると思う。

いまはまだまだ世界の移行の途中。
これからもたくさん変化が起こるのだろう。
変わるというのは怖さを伴うものではあるけれど、自分というものを知りより、自分らしく生きていける世界に変わっていっている。
たくさんの違和感や辛さを越えていって、喜びを知ることもできる。
一人一人がそうして喜びを知って生きていくようになったら、どんな世界になるのだろう。

そんなことを考えたニュースであった。

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