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月・帰路・Lost Days

「…っくしゅん!」
ああ、この季節が来てしまったか。スマホを閉じてコートの右ポケットに手ごと突っ込み、私は空を仰ぐ。電線の間からぼやけた月が照らしている。
「串刺しムーンだな…」
自分の発した言葉の滑稽さに呆れながら、私は歩みを再開する。頭に浮かんだのは、串揚げのうずら卵。左手に提げたビニール袋の中身は串揚げはなく、先程コンビニで買った麻婆豆腐丼とツナサラダである。まあ、なんでも美味しく食えるくらいにはお腹が空いている。空腹は最高のスパイスだ。

「…っくしゅん!」
まただ。くしゃみというものは、一度始まれば際限無く繰り返される。もはや抗うことはできない。出来得る限り素早く帰宅して風呂に入り、体中にこびり付いているのであろう花粉を消し去るほかない。花粉症持ちとは損な体質である。冬の寒さから開放され、灼熱地獄に放り込まれるまでの僅かな猶予さえも、止まらぬくしゃみと鼻水、目の痒みに苦しまなければならぬのだ。最悪だ。植物よ。何故貴様らは春に花粉を飛ばすのか。

「…っくしゅん!」
ああ、そうか。そういえばもう冬が終わったのか。私がくしゃみをすると言うことは、つまり春がやって来ることを意味している。季節が移ろうのは早いものだ。ここ最近、特に早く感じる。歳なのだろうか。人間は経験を積むことで初体験が消えて行き、それに伴って気に留めることが減り、時間が早く過ぎるように感じるのだという。聞いた話では、1年毎に半分ずつ短く感じるようになるらしい。にわかには信じがたいが…

「…っくしゅん!」
しかし、殊に今年は時が過ぎるのが早かった。きっと疫病が蔓延したせいだ。様々なイベントが中止に追い込まれた。幸いにも私の仕事に差し支えはなかったが、数少ない友人との会合は、ついに今年は開催されなかった。今年はなんにもなかったなあ。

何もないです
それでロストジェネレーションか
忘れないで
僕らずっとここでそれでも生きてるの
息してるよ

不意に、口ずさんでいた。ASIAN KUNG-FU GENERATIONの「さよならロストジェネレーション」の一節である。数少ない友人に、高校時代に勧められた。

まだ"ジェネレーション"とまでは行かないものの、これは完全にロスト“デイズ”ではあるな。そうだ。今年はなんにもなかった。


「…っくしゅん!」
そういえば、今年は体調を崩さなかった。私は毎年、季節の変わり目には高熱を出し、寝込んでいた。今年はそんな気配は微塵もなく、今まさに季節の変わり目にあって、コンビニのビニール袋を提げて鼻歌交じりに闊歩しているのである。心当たりがない訳がない。手洗いうがい、そしてマスクの着用である。私は数十年と人間をやってきたが、ここまで手洗いうがいを徹底したのは初めてであったし、冬以外の季節にマスクを着用するなど、給食当番以来の出来事である。

「…っくしゅん!」
私は、医者とは超人であると確信していた。頭脳明晰なのは言うまでもなく、彼の人等はありとあらゆる疫病の患者に対峙しながらにして、自身は全くの健康で職務を休むことがないのである。恐ろしい生き物だ。こちとらインフルエンザワクチンを摂取してもインフルエンザに罹るというのに…そういえば今年はインフルエンザも全くもって流行していないと見える。メディアが敢えて取り上げないだけか知らないが。

「…っくしゅん!」
ともあれ、医者の超人伝説も今年のインフルエンザの沈黙も、全ては手洗いうがい、マスク着用によってもたらされたと見て間違いなさそうである。私は確実に今、かつて羨んでいた超人となっているのである。


止まらぬくしゃみと思索に終止符を打つように、我が家の扉に手をかけた。一刻も早く、風呂に入り憎き花粉共を水攻めにしてやらねばならぬ。しかしその前に、手洗いうがいだ。私を超人たらしめる儀式が最優先である。

振り返り、串刺しムーンに別れを告げる。次に友人との会合を開くなら、串焼き屋が会場となることは間違いなさそうである。


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