受験とは、将来とは、やりたいこと、とは。

やりたいこと

いつからかそれを、
『自分ができること』から考えるようになっていた。

今私はがやりたいこと
なりたい理想像。

私はやりたいことなんて、そんなはっきりなかった。行きたい大学なんて、そんなはっきりなかった。文学部系統ならなんでもよかったし、都心の立地ならなんでもよかった。

逆に、大学に行きたかった。

というより、行きたい。
親に言われてーと渋々受けているのはあるけど、それは今年、

私の本当の本音は
大学は文系ならどこでもよくて、でも都心で、行けるならもちろん高い方がいい。けど大学は行きたい。授業とか楽しそうだな、と思う。

自分は無理だって諦めてたからだ。
テストなんて、幸い日本の受験なんて、誰だってやればできるように作られているのに。続ければ絶対誰にだって解けるようになっているのに。
たしかにセンスはあるかもしれないけど、誰だって解ける。

多分それは、10mから飛んだ時に、『みんな真っ直ぐに飛んだら痛くもなく沈まず帰ってきてる、だから大丈夫』そう思って落ち着いて飛んでこれたことだ。

あの時実は、直前に飛ぶのが怖い”というそぶりをしようとしている”自分がいることに気づいたのだった。『みんなができていてできないわけがない』そう思ったのだ。

受験勉強は、幸い、やれば誰でもできるようになっている。
たしかに受かった人は“頭いい”と思う。解けるまで勉強できてる“頭いい”人だ。
でもそれをいつからか私は、人間的な違いだと思ってしまうようになった。

みんなやってきたからできるんだ。
私はやってきてないからできないだけだ。

だから私も、今はできないけれど、やっていけばできるようにちゃんとなる。
ダンスよりも、勉強の方がよっぽど簡単だ。
あ、いや違う。同じなのかもしれない。
ダンスも、受験勉強も。

今まで、勉強して、『できた!』を味わえたことが少なかった。小テストですら、『できない』『できなかった』が普通だった。勉強に対して、『できないものをできるようにしていくもの』という考えが、良くも悪くもなかったからかもしれない。

『勉強』というとたくさんあるけど、私は
あくまでテストは知識の定着度を測るもの。良し悪し、すなわち人間的優劣を図ってるものではない。
そう理解するのにとてつもなく時間がかかってしまった。

受験勉強とは何か、を考えたらいろんなものがあるだろう。でも根本はきっと、点を取れるか否か、ではなくて、『その知識を持っていることを前提として行きますよ、それについていけるか確かめたいので入学試験をしますよ』

受験はそれを突破した頑張りを評価するものでもなく、シンプルに、大学に合いそうな人をとるね、求めてる人はこんな人、ということだ。
単純に、対策のしやすいオーディションなのだ。だからどこの大学に行ってるかどうか、は確かにその“難易度”ではかられているかもしれないがそれは頑張りを評価するものでもなく、指定校入試や推薦入試が始まったいまそう言った側面は失われつつある。

つまり、日本の大学が日本の社会での立ち位置として、学問をしにいく場所として機能するのか(その学問をしにいきたいと思う学生を集める場とするのか)それとも高水準な人間を集める場所として機能するのか、あまり私もうまく言えないが、その差が不明確なままで今の体制を続けることに今の社会との不一致があるのではないだろうか?
本来はその証明であったはずなのに、目的と手段が混同してしまったようなものだろう。
うむ、、わかるんだけどわからない。これはまた別の時に考えよう。

して、
文理系の学部に行こうとしていたのも、『文学部には意味がない』『文系は役に立たない』という思い込みの元であった。ダンスとして生きていくことになかなか舵をきっていけなかったのも『ダンスになんの意味があるのか』というところであった。『そんなの誰にでもできるのに』であった。
人間の価値と、社会的貢献度すなわち収入や職業とを掛け合わせていたように思う。
だから、
『なにもしない私』『なにも生産せずに自分のためだけに生きる私』は、価値がなかったのだ。

働いたとしても、ただアルバイトには、価値はなかった。働いてその金で生きていたとしても、親のお金じゃなくて自分のお金で食べて遊んでいたとしても。

なにも生み出さず、貢献しない私。消費するだけの私。どれだけ着飾ったとしてもーー、何かの能力をつけて、英語が話せたとしてもーーー、それらは全く、私にとって『私は価値がある価値』と感じさせることができなかったのであった。

フリーターという、正真正銘、
『何者でもない』という期間の私は、だから辛かった。自分のことをすごいなんて思えないし、勉強から逃げたやつだとしか思えなかった。ただ現状を維持するために働いて、ただ現状を維持するためにストレス発散で飲み歩いた。悪循環だった。なにをしてるの?夢があるの?という質問は地獄だった。適当にごまかしていた。ダンスをやりたいんです、と言っていた。でも別に何かしているわけでもなく、なんなら諦めていた。
やってもやっても、生きてる心地がしなかった。周りが楽しそうなのはもちろん、自分にはなぜこうも未来がないのか、と思った。
現状維持のために生きていて、その現状維持とは破滅を意味していた。

今となれば、その始まりが努力をしなかったからだとわかる。努力をしなかったというよりも、努力をするという概念すらなかった。努力をするのが大変だ億劫だというのもあるが、そもそも根本的に自分が可能性のある存在であり、その挑戦するという枠は誰にでも分け与えられているものであり、自分もその枠に例外なく当てはまっている、というなんとも当たり前なことに気づかなかった。

だから私は家にいるのが嫌いだった。家にいると自分の無価値感をより一層感じてしまうからであった。なんで存在しているのか、わからなかった。ただただ、時間がすぎ、『イベント』が終わるのを待っていた。自分が好きな『イベント』ならばその努力に勤しみ、そうでなければ、それが終わってしまうことをただただ待っていた。やりたくない、、とかでなく『できないからやらない』とかたく決めてしまっていた。
もちろん、進歩なんかなかった。
劣等感を増幅させ、無価値感を肥大化させるだけであった。
それを埋め合わせようと、無理なダイエットや、無駄に考えて『頭よく』あろうとした。単純に、斜に構えていたのだ。

私はものすごく後悔している。
留学当時の自分をだ。

日本人として誇りを持つ自分、日本が嫌いだという自分、自分のアイデンティティーが全く確立できていなかったのだ。これほど幸せな環境に生まれて、なに不自由なく生まれて。
それなのに、全てをものすごく悪く取っていたのだ。
世界史を学びながら、なんで愚かなことを私はしていたんだろう、と思う。それでも付き合ってくれた友達には感謝しかない。

とにかく私は自分の存在を示したくて仕方がなかった。劣等感の塊でしかなくて、認められたくて仕方がなかった。たとえ相手が認めてくれたとしても、相手の関心と、それ以上に、相手を平伏せさせたいと思うほどであった。

自分のことを、自分のバックグラウンドを誇りに思っているのに、認められない。なんとも哀れだったと思う。それを確認できないと気が済まなかったのだ。
自分は素晴らしいと他人に言ってもらう必要があった。承認要求でしかなかった。それほどに私は劣等感の塊であった。

ふと気がついて周りを見れば、周りは自分の人生を歩んでいた。デンマークにまで行って帰ってきてもなお、私は認められるために生きていた。

自分で自分を認めることができなかった。
だから他人を認めることも、できなかった。

高校時代にいつまでも取り憑かれて、相手を降伏させることが目的になってしまっていた。

思えばいつも短期戦であったのはーーーテストやダイエットも、行事前に短期でやるのみであった。
そしていつもそれが終わったあとに、なんとも言えない無力感と、舞台に立つ華々しかった自分と今の自分と、何か差をつけなければならないような、だけどその自分こそが自分だと思いたい。そんなジレンマに苛まやされていた。周りは日常に戻っていく。その中で行事にだけを頑張ってしまった自分は、『日常』の中においてそれが全くなににも残っていないことに気がつく。
当時の私はイベントに向かって頑張るのが自分の性にあっているのだろう、と思っていたのだが、
それはきっと単純に当時の私の存在し生きる目的が他人に認めてもらうためだったからだ。

そんな私が、
人間の大部分を占めるのは『イベント』ではなく『日常の積み重ね』である。ということに気づくのにはだいぶ後のことであった。

デンマークでの生活は、なんでもない日常の中にたまにイベントが組み込まれていたタームと、日常と並行して常に大きなイベントが流れている時とがあった。
忙しすぎる時は、何もない日常の日が欲しいと思った。ただ、日曜日ただ空白な時間がある時は、だれてしまう恐怖でいっぱいだった。10時半に起きて(前日お酒を飲んでいるので)ブランチを食べ、そのあと13時までひたすら踊っていたりした。
遊んでいる友達が羨ましかった。
でもだんだんと、『なにもしない』を楽しみ、ただコーヒーとケーキを持ちながら談笑する、映画を見る、そんな時間を幸せに思うようになっていった。(私の母はそれを無駄と称する。それはいつまでも私の心をえぐり続ける。)

思えば、

そうは言っても私は日本人だ。日本に帰ってきてから、考え方の違いに苦しむようになる。劣等感もまた、ぶりかえしてきた。
すごい人、すごい経歴の人、そうなりたかった。

残念ながら私は普通の人間である。でも逆に言えば、普通に生きてもいいのだ。何かになろうとする必要はもうなくて、力を抜いて落ち着いて自分のためだけに生きて頑張ればいいのだ。

自分が『使えるやつ』『できる人』『頭いい人』でいないとならない、そう思っていた。そうあらねばならない。自分はできるはずだから。
もちろん、できる、すごい、頭いい。
そんな定義なんてたくさんあるし、そんなことを考えるのが何よりもバカらしいなんて、わかっていた。

だけどやめられなかった。いつもその恐怖心を抱いていた。なぜなら私が『ダメ』『できない』ことを目の当たりにして、それを認め、『できない人』と成り下がったが今度、それは生きている資格がないことを
私にとって意味していたからであった。

何かを成し遂げていない人間は無価値であった。
でも、何かを成し遂げるために努力をしていたわけでもなかった。無価値であることを認めることからただ逃げ、またそれが何もできない無力さを増幅させていた。

私は逃げて、逃げて、逃げた。
それを認めることから、逃げた。
言い訳した。
人のせいにした。
自暴自棄になった。
自分を責めているアピールをしたりもした。

周りの友人に自分の頭の中でいいから成敗してやりたくてしかたがなかった。
それくらい、負けを認めたくなかった。負けてない!ということを証明するための式を、受験道具を前に必死で考えていた。

どうしようもないくらいに醜くかった。
そんな私は、紛れもなく『無価値』であった。

そうしてこの文を書いている。(正直下記は今書きながら思ったことである)(そしてこの瞬間、私は自分が『無価値である』ということを、とうとう認めた)

自分が『無価値である』そう認めてしまった時に、人間は初めて『努力』しようと思うのかもしれない。
それは無価値でないように努力するのではなく、その『価値』は努力することによって得られるものだと知ることができるからかもしれない。

自分が無能であり、無価値であると自覚した時、初めて何かに取り組もうと思えた。自分には何もないと理解した時、はじめて、自分が0から始めることを、自分に許すことができたのだ。自分には元から何もない。何もないのだからたてていくしかない。そのときはじめて、周りの成し遂げているなにかも、そうやって積み重ねによって出来上がってきたのであり、ただ単純に良し悪しで判断できるものではないことに気づく。確かにそれは価値があり尊いものだと知ると同時に、それができないことが、今できていないことが、自分が無価値である証明ではないことにも気づいた。
そしてその『価値』と人間生、人間として生きていることとは同じではない、ということにも気づいた。

そう、だから、とどのつまり、人間はみんな、一緒なのだ。『みんな同じ』であり、『みんな価値がある』のであり、『みんな価値がない』のである。
人間として生きている上で、優劣など存在しないのである。
何をしているか何ができるか、それらの『価値』は、社会的に付随した者に過ぎない。
もちろん、社会的な立ち位置、という意味での“マナー”を守ることは必要だろう。しかしその序列は人間としての『価値』には等しくない。

先人が言うことは本当なのだ、と常々思い知らされる。
早寝早起きも、規則正しい習慣も、言動も、心掛けも、全て大切なのだ。基本中の、基本。当たり前のこと。それが全てなのだ。
小手先じゃ結局何にもつながらない。どれだけセンスがあろうと、優れていようと、最終的に基礎ができているものが評価される。くやしい。でも同時に、周りとの差はそれだけだと気づく。その基本が難しいことにも気づく。でもそれは誰にだってできることにも気づく。そしたら、それを埋めればもっと飛躍できることに気づく。自分の可能性に気づく。自分をもっと信じることができる。

急がば回れ。ただそれは急いでる時だけなのだ。
焦ること、急ぐことなかれ。確実に小さく謙虚に、真っ直ぐに。自分を身失わずに生きていていくとは、きっと、そういうことなのだ。
そんなことを思う、今日この頃なのだ。

こんな過去の自分を恥ずかしく思い、自責の念に苛まされることもある。でも今のは私はもう知っている。それは全て過去なのだと。そして未来は、自分次第で変えられるのだと。その過去は反省したら次に生かせばいいのだと。人間だから失敗くらいする、謝って、次。それこそが生きることなのだと。
まぁ、人間だもの。仕方がない。

そして、今の世界は自分が見たいように、自分が、『創って』いる。全ては自分の思い込みだ。だから世界は自分でつくれるのだ。

今こうして机の上に上智の赤本を載せるいるが、前の私には抵抗があった。周りに目指してるなんて思われたくなかった。どうせ無理だろうにって思われるんじゃないか。無理だろう、そう思ってるのは紛れもなく私であった。そもそも目指す気もなかったのは私であった。

受験勉強が楽しい人、というのは、合格する人なのであろう。逆に言えば、合格すると分かっているから、そのために勉強する、そのことが、自分の夢に向かって努力している感じがして、楽しいのだ。
できるできないじゃなくて、合格したい!その気持ちだ。そう、私にとって、合格することよりも、失敗しないことのが大切だったのだ。失敗する恥をかくこと、それを味わいたくないから、目指そうともしなかったのだ。

人間誰だって、失敗するよね!人間誰だって恥ずかしいことしちゃうよね!人間誰だって、そういうことしちゃうよね!だって人間だもん。
みんな違う人間、意見違うことだってあるよね!人間だもん。

そんなことを教えてくれた過去の出会いに、それでも友達で居続けてくれる友達に、それでも守り続けてくれる家族に、すべての人に、私は今、心から感謝している。ありがとう。

2020/01/29 柳 茉里

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