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反復・継続・丁寧

先日、仲の良い友人と就活についての話をした。

「挫折経験って自己分析で大事だけどそういうのある?あんまりなさそうだけど。」

「まあね。」

そう答えた僕は別に見栄を張ったとかではなく(いやちょっとは張ったかもしれない)、ただそれが大きすぎて自分でも認識できていなかったのだと電話を切り終え、少し考えた後に気づく。早速、自己分析は失敗。ここに綴った文章をその友人が見ているかはわからないけど、今ならこう答える。

「挫折“経験”」どころか「挫折“人生”」だよと。



少し前にとあるサッカー選手が契約更新の際に残したコメントを偶然目にしたときのこと。そこにこんな言葉があった。

「続けられる」才能と「活躍できる」才能は違う。

「自分のことだ。」と率直にそう思った。前者はある。自他共に認めるものだという自負もある。
ただ後者が圧倒的にない。これも自他共に認めるほど。
周りの活躍してきた人たちと自分の間にあるあまりにも大きな差を比喩しているような鋭利で深く刺さるこの言葉を受けて、この留学を最後に人生の大半を費やしてきたサッカーに幕を下ろそうという考えが頭に浮かんだ。これまで約15年間サッカーを「続けてきた」けど「活躍」は全くと言っていいほどできてはいなかった自分を辞めたくなったのかもしれない。

しかもこれだけ続けていると、いくらエリートとは縁のない道を進んできたとはいえ、友達や知り合いなど周囲に「プロ」の選手やその一歩手前の選手が徐々に出てくる。
そんな見ていて目が痛くなるほど眩しい人たちに対して、自分の才能の無さに性懲りもせず僕はまた嫉妬の混じった「羨ましい」を抱く。年々サッカーを好きになっていく気持ちに比例し、だからこそなのかこの想いもまた大きくなる。それを口にすることすら許される道を歩いてきてはいないはずなのに。

自業自得な理想と現実のギャップに悩まされ、納得のいかない日々をもう4年近く過ごしただろうか。その想いが頭をよぎるたびに「あの時、頑張らなかったツケが回ってきた。」「悩む資格すら持ち合わせていない。」そう自分を諭しては再び地に足をつけていた。ただ4年目にしてついに、それでも抑えられないほど自分で自分を許せない想いがスペインに連れてきた。これまで眺めるだけしかできなかったたくさんの背中に、少しでも追い付こうと自分なりに考えた結果がこれだったのだと思う。

そんな発端で海を渡ったのが9月のこと。時が経つのも早いもので、もうこの生活も残り一か月半で終わろうとしている。そんな今でも、来た頃と変わらずふとした瞬間に思うことがある。それは時間の流れが日本にいた頃と比べるとゆっくりに感じるということ。
それもそう。社会の構造がそもそも日本とは大きく違っていて、国民たちは余暇や可処分時間と呼ばれるいわゆる「自分のための時間」を大切にしている。ここには「ブラック企業」や「過労」、「多忙」なんてものはあるのだろうかという疑問さえ湧いてしまうほどの風景が夕方を過ぎれば街中のいたるところにある。
学校や仕事終わりにビーチに来る人や、バルと呼ばれる小さなレストランでサッカー観戦に一喜一憂する人、家族との時間にその全てを捧げる人ももちろんいる。

僕はというと主にその時間をサッカーに費やすほかにもジムに行ったり、読書やこうやって文字にして思考を整理することに使っている。他にもいろいろあるけれど、とにかく日本にいたときには時間が足りずできなかったこともできるようになった。そんなスペインでの生活のおかげか大切な考え方を見つけたような気がしたので、それをここに残そうと思う。

“自分を自分たらしめているものはなにか”

とりあえず今はこれに尽きるような気がする。SNSが普及して、多様性を声高々に謳う現代は、アイデンティティを見つけやすいようで見つけにくく、人々にとって「俺はこういう人間だ」というビッグダディ的な証明が欲しくなる社会になっている。
そしてその証明というのは情報過多だからこそ見つからないのかもしれないが、ほんとになんでも良いのだと思う。家族や友人、恋人と過ごす時間でも、仕事や趣味などの没頭できるものでも、それこそ服や車といったような消費でも。それらがいわゆる「個性」として自己を確立できるものであればなんでも。

そして自分にとってそれがなにかと考えたときにやっぱり真っ先に思い浮かぶのは、好きなサッカーを「続けてきたこと」だった。リーグ戦が少し休みになる期間、どうせ休日がまだあるから今日くらいはジムに行かなくてもいいかと思っていた自分も14時半のいつも行く時間になれば足を運んでいる。筋トレは嫌いで今までずっと避けてきたことなのに。

ただそうやって一日一日をきちんと何かに費やさないと、ただでさえ言語や身体能力でデメリットがあるあのピッチ上に自分はいらないと思われてしまうかもしれない。そうなれば“自分を自分たらしめていたもの”はいつかなくなるわけで、大げさに言ってしまえば自分が自分じゃなくなるような、そんな不安を孕んでいる。だからこそ、そうならないように何かしないといけないという気持ちに駆られる。

「続けられる」才能しかない人間は「活躍できる」才能が不足している分の埋め合わせとして、質も量ももっと「続け」ないといけない。そしてそれが僕にはどれだけ必要なのかと考えたときに、今までに時間を無駄にしすぎて、他の人よりもはるかに多いことにここ最近やっと気がついた。というよりはやっと目を向けれるようになった。

遅すぎるのは自分でも分かってて、いつか耐えられなくなって途中で進めなくなる時も来るかもしれないけれど、ただ今は自分らしくいたいエゴを突き通して、この「挫折人生」にもう少し抗ってみようかなと思う。自分が自分らしくいられるために積み重ねること。そんな日々は意外と苦じゃなくて、「心地ええ」です。






ちゃんとやんねん。

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