中原の実験的ネオ短歌の提案/その考察
反省
一短歌のクオリティの低さ
正直、一つ一つの短歌のクオリティは低いように感じる。浅い思考で超短時間で作られた短歌は、やはり言葉や構造が薄くなってしまうようだ。
本来の短歌の制作過程の思考は、
思い立った言葉をとりあえず並べる→・句同士のバランス・その表現をした理由・言葉が適切か、などをグルグル何回も何日も、時には数ヶ月置いておいたりして遂行する。従来の短歌は、深い思考と共に出来上がるものがほとんどだ。
しかし、ネオ短歌における思考は上記のものとは全く違う。強いて言うのなら、大喜利やラップバトル、平安時代の歌合わせと同じ類なのではないか。つまり、歌人のもつボキャブラリーや表現力、常日頃何を考えて感じているかが顕著に現れる短歌表現なのだ。
引き出しの少なさ
突発的に出された題に良い歌を作れるかどうかは、自身のボキャブラリーや発想の転換力が大きく関わってくるようだ。今回やってみて感じたことは2つある。
①ボキャブラリーの少なさ
②持ってるリズムの少なさ
まず、ボキャブラリーが少ない。「死ぬほど会いたい」や「超良い文字列」という言葉は、空っぽの脳から出てる言葉感があり、俗っぽいとも捉えられる。
今考えれば、死ぬほど会いたいではなく、その会いたい人の場所の説明をシベリア鉄道から広げられたと思う。1人で乗るよなんて言わなくても、シベリア鉄道に愛する人に会いに行く時なんか絶対1人だろう。ほかのもっといい言葉を入れられたように思う。31文字しか記すことの出来ないのだ。
超良い文字列も頭悪そうだ。バカップルが砂浜で2人の名前を合わせてニコニコイチャイチャしている姿が容易に想像できる。うう。自分の脳から突発的に出た短歌がこれだと思うと恥ずかしい。それに、その出来上がった文字列を「作品」と言い切るのは何だか不自然に思える。うーん。
「持っているリズム」についてだが、「絶対零度」や「激痛」など、最初に強めの名詞を置いてしまうのは
という短歌が脳にこびりついているからだ。私が初めて短歌に興味を持った時、この短歌に出会ってしまい、ビリビリと影響を受けてしまったのだ。それ故ふとした時にこのようなリズムの短歌を作りがちになってしまった。
パフォーマンスとの関連性はある
例えば、2Lの水を飲み終わったあとの私は吐き気と寒気と猛烈な尿意で、マジで頭が回らなかった。世界中の水を満足に飲めない方におでこを床に 着け擦切れるくらいの謝罪をしたかったし、飲んでる最中何回も撮影者に水を吹きかけてやろうか迷った。それはそれで面白い映像になるのではとは思ってしまった。したら死ぬほど怒られただろうから本当にしなくてよかった、理性が残ってて本当に良かった。
無事完飲した訳だが、もちろん私の脳は死んでた。故に字余りがかなり目立つ(それはそれで良い表現かもしれないが)そして、やはりワードチョイスのメタ感は否めない。薄っぺらい短歌となった。
一味致死量短歌も食べ終わった瞬間、ガチで口腔内が痛すぎて激痛という言葉しか出てこなかったのだろう。「イタい!おい!なんでこんなことしてるんだ!いたい!!!」しか考えられなかった。それ故脳が回らなかったのだろう。
体言止めが2つもある。この手法は歌のインパクトを出すには効果的な用法だが、多様するのはかっこよくないだろう。
身体的苦痛を遂げ作られた4首は全て薄味の短歌になってしまっているし、初句と五句目に名詞を置きがちになっている。私の短歌の癖や小手先でどうにかしちゃおうという魂胆が見えてしまい、恥ずかしい!
ここまで酷評してきてしまったがしかし、身体的苦痛を遂げ、脳は回らなく、ズタズタな状態で詠んだというバッググラウンドがあるとやっぱりどこか趣を感じてしまうところもある。これはこれでダメダメな訳では無い。しかし、より良いものにするためにはそれ相応のトレーニングを積まなければならないだろう。
今からその提案をさせて頂く。
サーキットの提案
題とワードチョイス
今回のネオ短歌で軽視してしまった部分がある。それは、題とパフォーマンスの関連性だ。もっと題に思いを馳せるべきだったと思う。大喜利、ラップバトル、あるいは歌合わせだって、題に則してパフォーマンスを繰り広げるものだ。例えば大喜利だったら、題が含む全要素に寄り添い、フリップや答える時の声色、表情、間、全てを操り答えを出す。
この類の表現の、題への寄り添い方は言わば、現代文の記述問題みたいな感じだ。しっかりと筆者の考えを読み取り本旨をくみ取って上手く枠内に決められた語数で収める力。
つまり、題と自分のパフォーマンスを経た自分の激情をドッキングして瞬時に言葉を取捨選択し歌を作り上げるトレーニングを重ねなければならないわけだ。
そのためには、これは創作者なら皆やることだろうが、日常の些細なことに目を向け疑問を持ち感じて考えて結論づけたり、という思考を絶やさず行うべきだ。また、当たり前だが、ジャンル問わずインプットを常日頃行わければならない。そして、その行いの中でふと心が動いた時には一首詠んでみるのが良いだろう。
(薄々感じていたが、ネオ短歌は平安時代の貴族が行っていた遊戯的短歌に回帰していると思う。それは回帰と言うよりもむしろ、それが短歌の本質なのだろうと私は考えた。多分有名な歌人は皆日頃やっているのだろう。多分。)
パフォーマンス面の強化
ネオ短歌は、本来の短歌とは違い表現者の動き、喋り、目線、息継ぎ、全てが短歌表現になる。ならばパフォーマンス面を強化する他ないだろう。
パフォーマンスの追求は、自分自身自分の見た目や声を分析することが大切になってくる。これは己が持つ固有のものだから、良い方向へ武器にしていくしかない。
例えば、今年度のM-1グランプリ決勝進出女性芸人のヨネダ2000はきっと、2人の声質や体型、顔つき、髪型、全ての要素を考慮しあの芸風にたどり着いたのでは無いかと思う。本当に面白い、私も餅をつきたい。
私の場合は、
ビジュアル:・少女
声質:・高め・速め・はっきり
と分類。
そして、この特徴に合うキャラクターを想起する。私の場合は、少女性と声質のパッション感、そして私の本来の性格から 「元気はっちゃけ系」でいくといいのではと思う。(雰囲気で言うと、女子高生ラッパーのKTみたいな感じだろうか。烏滸がましいが)
しかし、ここで難しいのが、ネオ短歌のジャンルはまだ成立していないため、どのようなパフォーマンスが効果的か誰も分からないことだ。先人がいない領域を開拓するのは困難だ。先進することはいつだって激動なのだ。例えば、全力ダッシュをした後、息を荒らげたまま短歌を詠むのか。息を整えて前髪チェックをしてから演じるフェーズに入って詠んでも面白いかもしれない。はたまた叫んでしまうのか、ボソボソと暗い雰囲気を纏いながら甘く重い詩的な短歌を呟くのも面白いのでは無いか。
発展案として、例えばポージングをつけたり歌っぽくしてみたりダンスをしたり、事前に観覧者に与えたい印象をつけるために身なりを整えるのも良いだろう。
是非とも自分に合った方法を見つけて欲しい。
競技化とネオ短歌
東京短歌大学 21XX年度 過去問対策
ネオ短歌の必要性
ここまで長々と考察をしてきた訳だが、
「従来の短歌でええやん、俺は普通の面白い短歌が詠みたいわ〜」て思ってる人、、、
うるさいうるさーい!!そんなんそりゃそうだよ。私だって素敵な短歌が大好きだし素敵な短歌を作るのも大好きだよ!短歌が大好きだからやってるんだよ!
短歌。平安時代からここまでたくさんの変革を遂げて今日の形となっているのだ。現代短歌の中でも、例えば記号を使ったりカタカナ語を使ったり英単語を使ったり字余り字足らずを上手く利用したり1単語だけ文字の大きさを変えたり、、、たった31文字の中でこんなにも心動かせるのか、と私は新しい歌を読む度にそう思っている。しかし、
破壊と想像。新しいものを作るには、従来のものはぶっ壊さないといけないのだ。紙媒体短歌からインターネットの海に漂う短歌。そしてライブ感満載パフォーマンス短歌へ。
穂村弘さん、木下龍也さん、岡野大嗣さん、最果タヒさん、岡村真帆さん、そして俵万智さん。こんな青二才が偉そうにすいません。先人いてこその今ですよね。でもなんか、もしよければ私と一緒に辛いラーメン食べたり水爆飲みしたりくしゃみ100連発したりして。一緒にイノベーションを起こしませんか?
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