『陥都血涙録』に関する

作者:百年非
2023年7月7日

中華民国国民政府によって1946年2月15日に設立された「中国陸軍総司令部審判戦犯軍事法庭」(1946年6月、「国防部審判戦犯軍事法庭」へ名称変更。以下、「南京裁判」)が、1947年2月6日、谷寿夫(南京事変時の日本陸軍中将、第6師団長)に対する裁判を開き、3月10日、谷寿夫中将に対してB級戦犯として死刑判決を下した。同年4月26日、谷寿夫中将は南京で銃殺刑に処刑された。その死刑判決に大きく寄与した決定的証拠として、南京裁判の判決書(注1)にも登場する『陥都血涙録』は、中華民国及び現中国政府系のプロパンガンダ、「南京大虐殺」肯定派等に重宝され、もてはやされていることが広く知られている。
『陥都血涙録』の著者である郭岐は、南京戦の当時、蒋介石が率いる国民革命軍(略して国軍)教導総隊輜重営の中校営長(輜重大隊の大隊長で、中校は日本軍の中佐の階級に相当する)であった。教導総隊は、国民革命軍の中で、主要な訓練・教育部隊として機能し、兵士の訓練や再編成と準備等を行っていた。輜重営は教導総隊の下位組織として、軍隊の物資補給や弾薬輸送等の任務を担い、戦力の運用に不可欠な役割を果たしていた。終戦後、郭岐は新疆防衛区に駐屯し、陸軍新編第45師の師長(日本軍の師団長に相当する)の職にあった。
1937年12月13日、南京が陥落した。郭岐が逃げ遅れたため、初めは南京イタリア総領事館に隠れ住んでいたが、その後、安全区内で3回程引っ越しをしたりして、約3ヵ月間、南京城内に留まっていた。そして、1938年3月12日、漁船に乗って、7年間も居た南京を脱出した(注2)。
『陥都血涙録』は元々、南京陥落後3ヵ月間に於ける著者郭岐の見聞(殆ど風聞)と体験を纏めた手記(回想録)で、1938年8月より、西安の『西京日報』に連載されていた(注3)。
台湾中外図書出版社、1979年3月、『陥都血涙録』をもとに『南京大屠殺』と改題して出版した。
南京師範大学出版社は、2005年7月、『南京大屠殺』をもとに郭岐の娘である郭鳳翔が執筆した「追憶父親」を追加し、更に書名を『陥都血涙録』とし、出版した(ISBN 7-81101-240-5)。
『西京日報』に連載されていた『陥都血涙録』の全容は不明であるが、その第三章から第十八章までは『侵華日軍南京大屠殺史料』編委会・南京図書館編『侵華日軍南京大屠殺史料』(江蘇古籍出版社、1997年8月、ISBN 7-80519-913-2)に収録されているため、その内容を知ることが出来る。また、南京師範大学出版社によって出版された『陥都血涙録』と『侵華日軍南京大屠殺史料』に収録されている第三章から第十八章までの内容を読み比べると、南京師範大学出版社の『陥都血涙録』は内容構成を含め、大幅に加筆修正されたことが分かる。
南京師範大学出版社の『陥都血涙録』は、八小節の中で、1947年の南京裁判やその判決書の内容が言及引用されていることから、当初『西京日報』に連載されていたものではなくて、台湾で『南京大屠殺』として出版される際、郭岐によって大幅に加筆修正を施されたものと思われる。
南京師範大学出版社の『陥都血涙録』の真価はいかほどのものか、幾つかの小節を選んで、以下の如く考察する。
   
注1:国防部審判戦犯軍事法廷判決書三十六年度(1947年。注記筆者)審字第一号
注2:『陥都血涙録・登上漁船沿岸多屍』(南京師範大学出版社)
注3:『陥都血涙録』王志剛「序言」(南京師範大学出版社)

考察一 「自序」について

郭岐が『陥都血涙録』の「自序」(日付1978年7月)の中に次のように書いている。
抜粋意訳
被告として取調べを受けていた南京大虐殺の日本軍司令官である谷寿夫らは責任を他に転嫁し、南京の30余万人の軍民の死亡は、双方による激しい戦闘の結果であると詭弁した。審理を担当する軍人裁判官は証拠が無いことに悩まされ、遅々として判決を下すことが出来なかった。ちょうどその時、国防部第五庁(郭岐の自伝『黄沙碧血戦新疆』(聖文書局股份有限公司、1986年10月)の前書きによると、国防部第五庁は、南京裁判に関する証拠収集を担当する専門部署。注記筆者。)の庁長である徐汝誠は、私がかつて南京にいて、(南京大虐殺の)惨状を目撃し、『陥都血涙録』を書いたことを知っていた。そこで、彼が国防部に報告したところ、私は至急電報によって、新疆防衛区から南京に出向いて出廷証言するよう、呼び出された。その結果、遂に谷寿夫らはうなだれて、有罪を認め、戦犯として処刑された。南京30万人以上の無辜の軍民が受けたとんでもない冤罪はようやく晴らされたのである。
 
『陥都血涙録』が南京裁判の証拠として使われた経緯について、「自序」の他に、郭岐が同書の「従新疆到軍事法庭」(新疆から軍事法廷に赴く)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
私は国防部から、陸軍大学将校班第三期の研修を受けるようとの命令を受け取った。そのため、9年ぶりに辺境の西北部から首都南京に戻ってきた。
ある日、路上を歩いていると、偶然にも親友の徐汝誠将軍に出会った。彼とは、黄浦軍校の同窓であり、長年肩を並べて戦ってきた仲間でもあった。新疆では、私が暫編第45師の師長を務め、汝誠は暫編第46師の師長であった。彼は南京に戻った後、国防部第五庁の庁長を務めている。彼は私にこう訊ねた。「国防部戦犯審判軍事法廷は今、南京大虐殺の主犯である谷寿夫を審理しており、具体的かつ詳細な証拠の発見が急務です。あなたはかつて、南京陥落後三ヵ月の間に見聞きしたことを手記に書き残したことがあるのではありませんか。その手記は今も持っていますか。」
「はい、持っています。」
「以前、あなたのその手記を読んだことがあります。その手記は、南京大虐殺に関する最も完全で詳細な記録であると思います。軍事法廷の検察官が谷寿夫の罪状を告発する証拠として、それを提供してもらえますか。」
「喜んで提供します。」
徐汝誠はすぐさま石審判長に知らせた。石審判長はただちに当時の海軍総司令の桂永清将軍と連絡を取った。石審判長が桂総司令と連絡を取ったのは、桂総司令が陸軍士官学校教導総隊の総隊長を務めていた頃、私が彼の部下であったためである。
桂司令官は、海軍本部軍法処の呉智処長に対して私と連絡を取るよう命じたので、私は9年間大切に保管していたその手記を取り出し、『陥都血涙録』との題名を付けて、石美瑜先生に渡してもらうため、呉処長に手渡した。石美瑜先生と軍事法廷の検察官がそれを確認した結果、その記録はすべて真実かつ、つまびらかなもので、証拠として採用することが出来ると判断した。

 
同書「従新疆到軍事法庭」の一節によると、『陥都血涙録』が郭岐より南京裁判の石美瑜裁判長と検察官に渡されるまでの流れは図1の通りである。
 

 一方、郭岐が自伝『黄沙碧血戦新疆』の前書きに次のように、違うことを書いている。
抜粋意訳
戦犯裁判団の裁判官達もまた、事が八年も経過し、一時、直接証拠を見付けることが出来ず、裁判は延期せざるを得ず、結果として懸案となり、審理が引き延ばされることとなった。
当時、国防部第五庁は、この案件の証拠収集を担当する専門部署であった。第五庁の徐汝誠庁長は、私と同じく新疆で長年軍務に服して、且つ同じ軍司令部の指揮下で共に勤務していた。私が第45師の師長に任命された際、徐汝誠将軍は第46師の師長であった。私たちは会う度に、お茶や食事の後に、徐師長はいつも私が語る南京大屠殺の惨状と体験談に耳を傾けくれた。私はそれらを回想録として書き上げて、『陥都血涙録』との題名を付けた。当時、戦犯裁判団による谷寿夫の裁判が行き詰まって捗らなかった。徐汝誠将軍はこの案件の証拠収集の責任を負っていた。そこで、彼は私の書いた『陥都血涙録』がこの案件の重要な証拠であることを思い出し、私の家族にこの本の在りかを問い合わせた。
私はちょうどその時、新疆で再び危険を脱して、無事に部隊に帰隊した後、ただちに『陥都血涙録』の原稿を携えて南京に急行し、国防部に報告した。国防部は戦犯裁判団に私を、証人として出廷することと『陥都血涙録』を裁判長の石美瑜に手渡すことを推薦した。石裁判長は『陥都血涙録』を一目見るや、まさに至宝を得たようなもので、即座に目を通して指示を出したため、審理が再開された。私自身が法廷で証言したことにより、被告の谷寿夫は黙り込み、もはや狡猾な弁解を行うこともできず、ただ頭を垂れて罪状を認めざるを得なくなったのである。

 
『黄沙碧血戦新疆』の「前書き」によると、郭岐が『陥都血涙録』を南京裁判の石美瑜裁判長に手渡すまでの流れは図2の通りである。
 

また、郭岐が『黄沙碧血戦新疆』の「戦犯審判返京作証」(戦犯裁判のため、南京に戻り証言する。)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
突然、当時の海軍総司令である桂永清将軍より、南京へ来て新しい職に就くよう、との電報を受け取った。……西安より飛行機に乗って、その日に南京に着き、勵志社に泊まっていた。……特別裁判案件として審理が行われているものの、証拠が無いため、何度も延期されて、結審が出来なかった。ちょうどその時、国防部第五庁の徐汝誠庁長がある日、勵志社にお客様を迎えに来られ、偶然私に出会った。
驚いた彼は、日本軍が南京で大屠殺を行った際、私が目撃しただけではなく、それを記録した手記があることを思い出して、この案件においてはそれが絶好の人証と物証ではないかと考えた。国防部第五庁は当時、この案件の証拠の収集を担当する専門部署であった。歓談した後、彼は私に、『陥都血涙録』を手元に持っているかと訊ね、持っているなら、それを先ず国防部に報告・審査してもらい、それから日本戦犯の罪状を宣告する証拠として、戦犯裁判特別法廷に提出した方がいい、と言った。幸運なことに、私は涼州を立ち南京へ出発する際、いざという時に備えて、この重要な手記を持ち歩いていた。私がただちに、それを国防部へ提出してもらうため、徐庁長に手渡した。

『黄沙碧血戦新疆』の「戦犯審判返京作証」の一節によると、郭岐が『陥都血涙録』を南京裁判に提出するまでの流れは図3の通りである。
 

 『陥都血涙録』の「自序」及び「従新疆到軍事法庭」、『黄沙碧血戦新疆』の「前書き」及び「戦犯審判返京作証」で五つの矛盾点が見受けられる。
 
矛盾点その一。郭岐の上京
『陥都血涙録・自序』→国防部至急電報により新疆から南京まで呼び寄せられた。
『陥都血涙録・従新疆到軍事法庭』→研修のため、南京に来ていた。
『黄沙碧血戦新疆・前書き』→桂永清に呼ばれて南京に来ていた。
 
矛盾点その二。郭岐と徐汝誠が偶然出会った場所
『陥都血涙録・従新疆到軍事法庭』→南京の路上。
『黄沙碧血戦新疆・戦犯審判返京作証』→勵志社。
 
矛盾点その三。『陥都血涙録』の題名
『陥都血涙録・自序』、『黄沙碧血戦新疆』→徐汝誠は、『陥都血涙録』という題名の回想録を前から知っていた。
『陥都血涙録・従新疆到軍事法庭』→郭岐が手記を呉智に渡す直前に、陥都血涙録という題名を付けた。
 
矛盾点その四。徐汝誠が『陥都血涙録』を探す
『陥都血涙録・従新疆到軍事法庭』→徐汝誠が南京の町で偶然郭岐に出会って、『陥都血涙録』のことを訊ねた。
『黄沙碧血戦新疆・前書き』→徐汝誠が郭岐の家族に『陥都血涙録』の在りかを訊ねた。
『黄沙碧血戦新疆・戦犯審判返京作証』→徐汝誠が勵志社で郭岐に出会って、『陥都血涙録』を手元に持っているか訊ねた。
 
矛盾点その五。『陥都血涙録』の提出
『陥都血涙録・従新疆到軍事法庭』→郭岐が、『陥都血涙録』を石美瑜裁判長に渡してもらうため、呉智に預けた。
『黄沙碧血戦新疆・前書き』→郭岐が『陥都血涙録』を石美瑜裁判長に渡した。
『黄沙碧血戦新疆・戦犯審判返京作証』→郭岐が、『陥都血涙録』を国防部へ提出してもらうため、徐汝誠に手渡した。
 
郭岐本人が書いた二つの本は、事実関係に上記のような重大な齟齬が五つも見受けられる。その齟齬の中に、必ず一つ又は一つ以上の嘘があることは明らかである。このため、『陥都血涙録』の内容の信憑性を大いに疑わざるを得ない。
また、郭岐が「自序」で我々に特筆に値する一つの重大な秘密を教えてくれた。『陥都血涙録』の「自序」及び『黄沙碧血戦新疆』の「前書き」と「戦犯審判返京作証」の一節に依れば、谷寿夫中将に対する裁判は、「証拠が無い」ため、「裁判が行き詰まって捗らず」、「遅々として判決を下すことが出来なかった」、とのことである。かくの如く、裁判がにっちもさっちも行かなくなったころに、郭岐が証人として出廷・証言したことにより、更に決定的証拠として扱われた『陥都血涙録』に基づいて、谷寿夫中将に対する死刑判決が言い渡された。言わば、郭岐が南京裁判の救い手、『陥都血涙録』が判決の決め手となったのである。このことを世間一般に暴露したのは、他の人ではなく、南京裁判で当の証人こと郭岐である。
この暴露から明らかなように、「証拠のない」南京裁判は、当時の中華民国政府による政治裁判であり、その正当性は全く無く、谷寿夫中将らに対しては冤罪がかけられた茶番劇と言わざるを得ない。

考察二 「糞池掏宝性命卅条」の一節について

郭岐が南京裁判の法廷で谷寿夫師団長が率いる第六師団の暴虐として証言した一つ目の証拠の全容は、同書の「糞池掏宝性命卅条」(肥溜の財宝探し、30人死ぬ。)に書かれてある。
抜粋意訳
日本軍が南京に入城した後、略奪を働き、天から地まで、非道な行ためを尽くした。一つの例を挙げよう。彼らは、悪臭鼻につく肥溜でさえ容易に見逃さなかったのである。
南京の東岡頭という所に、一つ大きな肥溜があった。しかし、日本軍は肥溜の中に財宝が隠されていると言う。彼らは臭くて汚いことを嫌うので、中国の30数人の一般市民を強制し、肥溜に入って回収させようとした。
極寒の季節。大地が凍っている。30数人の中国の同胞達は寒さに震え、恐怖に怯えながら、肥溜のそばに立ち竦んで、身震いしていた。彼らが目の当たりにした肥溜は途轍もなく広く深いもので、糞尿が人を気絶させるような酷い悪臭を発している。彼らは迷いや躊躇いが生じ、前に進むことが出来なかった。誰もが飛び込んで池の底に身を投じる勇気は無かった。
その時、日本兵達が声を張り上げ、何度も強制した。彼らは、我が同胞達が肥溜のそばに困惑の表情を浮かべて立っているのを見ると、すぐさま銃の安全装置を外し、銃弾を込め、誰か一人を選んで銃を発射した。その人は撃たれて地に倒れ、即死した。しかし、他の同胞達は怯えていて、肥溜に入ろうとしなかった。日本軍は狂気じみた笑い声を上げた。彼らはもう命令せず、強制することもなく、肥溜のそばで悲しく泣いて助けを求めている我が国の同胞達を生きる的とした。銃声が鳴るたびに、我が国の一人の同胞がばたっと倒れる。血迷った日本軍は、立て続けて我が国の同胞を10数人殺害した。更に、銃を振り回して、残りの10数人の我が国の同胞を肥溜の中に追い込んだ。汚物が飛び散り、悲鳴が響き渡った。日本軍は数歩後退して、恐ろしい悲痛な夜に、10数人の中国の同胞が彼らのために肥溜の中から財宝を探し出すのを待っていた。
静寂な夜、月のない闇夜に、冷たく荒れ狂う風が苦難の中国人のために悲しみ嘆いるかのようであった。日本軍は忍耐強く長い間待ち続けていたが、肥溜は静まり返っていた。彼らが肥溜に近づいて覗き見ると、そこには10数人の中国の同胞が凍死し、溺れて死んでいることが分かった。これが30数人の人命の最期であった。彼らにも父母、兄弟姉妹、妻子、子供がいた。彼らもまた、日本の皇軍と同じく血と肉を持ち、同じ文化を持つ同じ種族の人間である。若しもあの一団の日本軍がいつか人間性を取り戻す日が訪れたならば、彼らは容易に気づくことだろう。何故、30数人の中国人が銃撃を受けることを選び、肥溜に飛び込むことを拒んだのか。何故ならば、彼らは肥溜で凍死し溺れて死ぬことが、一発の銃弾で命を絶つより遥かに悲惨な運命だと知っていたからである。

 
疑問点その一
筆者が調べたところ、南京城内及び南京城外附近には「東岡頭」という地名は無く、南京城からかなり離れた辺鄙な所に「東崗頭」という地名が二つある。城壁から一番近い「東崗頭」までの直線距離は約22キロメートルもある。図4参照。

図4
赤い点線のエリアは当時南京城の大体のイメージを示す

郭岐が同書「蒋委員長撥米救済」(蒋介石委員長が米の供給を割り当て救済する)の一節に次のように述べている。「日本軍が南京城を攻略し、入城した後、先ずは南京城外との交通を遮断し、各処の城門を出入禁止にした。
郭岐が南京城内に隠れていて、22キロメートルも離れた東崗頭で真夜中に発生したこの事件の現場(一部始終)を本当に自分の目で目撃したのであろうか?出入禁止の城門を夜中自由に出入ることが出来たのであろうか?
 
疑問点その二
郭岐が同書「ため日軍暴行作見証」(日本軍の暴虐を証言する)の一節に次のように述べている。「この血涙録は、……私が退却に間に合わず、首都(南京を指す。注記筆者)に留まっていた三ヵ月の間に、自分の目で見た日本軍が行った強姦、殺戮、暴虐の実録である。
郭岐が同書「十九万人惨遭掃射」の一節に次のように述べている。「南京陥落後の期間中、私は変装して、一時的にイタリア総領事館に隠れていて、南京城外での空前の大虐殺を目撃していなかった。
上記二つの記述は矛盾しているため、「糞池掏宝性命卅条」の一節に於ける郭岐の証言そのものも破綻し、成立しなくなることは言うまでもない。郭岐は「南京城外での空前の大虐殺を目撃していなかった」ため、「糞池掏宝性命卅条」の出来事は単なる風聞または作り話のどちらかであると考えられる。南京裁判がこの証言の真偽を検証せずに、法廷証拠として認め採用したことは、南京裁判の極めて不手際なやり方を如実に示す証拠となっている。
 
疑問点その三
郭岐が同書「湖泊池塘死屍淤積」(湖や池に死体が堆積する)の一節に次のように述べている。「民国26(1937年)の西暦12月12日は旧暦の11月10日に当たり、南京はこの以降、凍りつく氷や雪の極寒の季節となり、30万体もの死体が大自然に凍結され、朽ちることも腐敗することも無かった。
死体が凍ってしまって、腐敗しない程の寒さの中、当然肥溜も凍ってしまったに違いない。凍結した肥溜は、「汚物が飛び散る」ことがあるであろうか?凍結した肥溜の中で「溺死」することは考えられるであろうか?辻褄の合わない、あまりにも低次元の嘘を見破ることの出来ない裁判官による南京裁判は、荒唐無稽としか思われないのである。

考察三 「逼子烝母罪悪滔天」の一節について

郭岐が「逼子烝母罪悪滔天」(息子に迫って母親を暴行させる。この上ない大きな罪悪。)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
もう一つの、見るに耐え難い光景が私の目の前に浮かんできた。それを口に出したくない私は悲しくて首を振った。しかし、絶対に許すことの出来ない谷寿夫に罪を認めさせるため、私はそれを述べることにした。
次のような出来事は、私が見たり聞いたりしたところ、四回や五回にとどまらない。
ある日、一団の日本兵がとある民家に押し入り、国際委員会が設置した難民区内に避難せず、家の留守番をしていた中年女性を見つけた。日本兵に取り囲まれた彼女の不幸は想像を絶するものであった。
一団の日本兵が中年女性を暴行し、被害者はお腹が風船のように大きく膨らんでいて、瀕死の状態であった。血迷った日本兵は、それでも満足せず、中国人の男を探して回った。
恰もよし、中年女性の息子が帰ってきた。日本兵は笑ったり叫んだりして、日本語で一連の会話をした。何かを相談して、話が纏まった様子であった。そして、彼らは一枚のござを部屋の床の真ん中に敷いた。ござの後ろ側の壁に沿って仏壇があり、諸天の神仏と一族の祖先の位牌が祀られている。仏壇の下側、むしろの近くに福徳正神と天地君親師が祀られている。
血迷った日本兵たちが二組に分かれた。一組は全裸の中年女性を無理矢理、敷かれたござの上に仰向けに寝かせた。もう一組は、その母親の目の前で青年男性に服を脱がせるように迫った。
次の場面を思い出すだけでも、私が信じられないと感じる。血迷った日本兵たちはその母親と息子の周囲に集まり、手を組み、目を大きく見開いて、今まで聞いたこともないような、息子と母親との濡れ場を見下ろしていた。息子は従わずに一生懸命抵抗したものの、日本兵たちにこっ酷く鞭打たれて、体中が傷だらけになった。一方、母親は今にも死にそうな息子の命を助けるために、むしろ……。

 
疑問点その一
この一節の書き方から分かるように、郭岐が事件当時、民家の中にいて、出来事の一部始終を見ていたと思われる。
何故、日本軍が郭岐の入室を許可したのであろうか。それとも、郭岐が、日本軍の到着前に、情報を得て、先回りして民家の中に隠れていたのであろうか。
 
疑問点その二
郭岐が同書「当庭弁論質谷寿夫」の一節に次のように述べている。「私が提供した証言は、9年以上前の出来事であり、私が直接目撃しただけではなく、全てが検証可能な事実である。
9年も前に民家の中で発生したこの出来事は、どのように検証可能であると言えるのであろうか。また、南京裁判がこの出来事の検証を行ったのであろうか。

考察四 「当庭弁論質谷寿夫」の一節について

郭岐が「当庭弁論質谷寿夫」(法廷弁論。谷寿夫に質問する。)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
日本軍の野蛮で非人道的な行ためを明確に告発するために、私はついに心を決め、最後の衝撃的な真実の出来事を語る。これによって、日本軍の獣性を明らかにしたいと思う。
ある日、南京の下関で、一人の日本兵が80歳の老婦人を見つけ、彼女を無理矢理に座らせ、上着の襟とズボンを引き裂いた。この老婦人を公然と恥辱に晒した。そして、その日本兵は彼女を地面に押し倒し、無礼な行動に出た。老婦人は怖くなり、高い声で叫んだ。「私は今年80歳。あなたのお婆ちゃんになれる年齢だよ。どうしてこんな乱暴な真似をすることが出来るのか。」
その恥知らずの日本兵は彼女に対して無頓着に答えて言った。「それは何の関係があるの?あなたに子供を産ませるつもりはないよ。」
私は極度の苦痛に耐えながら、やって証言を終えた。
谷寿夫はおもむろに腰を上げ、ゆっくりとしゃべり始めた。「郭さんの証言を聞いたが、それらの事は確かに残酷過ぎる話です。しかしながら、私はそのようなことを知らなかったし、また、中国人民を迫害するような命令を出したこともありません。」
谷寿夫はあっさりと自分の責任を完全に否定した。当時の状況下で、私は十余万人の悲惨な死と被害を受けた同胞や国民のことを考え、彼の狡猾な弁明を容易には許すことは出来なかった。従って、私は彼に対して直接問い詰め、彼の弱点を逆手に取り攻め立てる覚悟をした。
「私が提供した証言は、9年以上前のことだが、私自身が直接目撃しただけではなく、全てが検証可能な事実です。現在も、正確な証拠を入手することは難しくありません。私は谷寿夫とは面識がないし、個人的な恩怨もありません。従って、私の証言は当時の実際の状況に基づいているに過ぎません。この場で、谷寿夫に尋ねたいことがあります。南京が陥落した日に、あなたの部隊はどこに駐留していましたか?」
谷寿夫は即座に答えた。「南京が陥落した日、私の部隊は中華路一帯に駐留していました。」
私は声を大きくし、断固とした口調で言った。「正解です。私が先ほど述べた四つの悲惨な事件はすべて中華路一帯で発生しました。それはまさに谷寿夫君の部隊が駐留していた地域です。従って、それは谷寿夫君の部隊の卑劣な蛮行でした。」

 
疑問点その一
南京の下関で、たった一人の日本兵が80歳の老婦人を暴行する時、郭岐や他の中国人たちは野次馬のように見ているだけで、誰も助けようとしなかった。何故であろうか。
 
疑問点その二
その日本兵は、80歳の老婦人が話す中国語が分かるのであろうか?郭岐はその日本兵が話す日本語が分かるのであろうか?
 
疑問点その三
谷寿夫師団長が率いる第六師団は、1937年12月12日午後、南京城城壁を占領したものの、城内に一兵も入れず、14日早朝より南京城西側を中華門から清涼山方面へ掃蕩を行い、15日早朝より蕪湖へ転進し始めた。図5参照。

図5
出典:下野一霍『南京作戦の真相:熊本第六師団戦記』(東京情報社、1965年12月)

谷寿夫が陳誠宛て「昭和十二年末南京戦に於ける予の部隊に関する陳述」の中に次のように書いている。「戦闘直後予の部隊は、軍命令に基き蕪湖への転進を命ぜられ、ただちに準備し、同十五日早朝より城内部隊を先頭に逐次出発、概ね二十一日迄に蕪湖付近に移駐せり。……南京の虐殺暴行等行われたりと伝えらるる地域は、城内は中央部より北方並下関方面の揚子江沿岸、又は紫金山方面……は我柳川軍の作戦区域外にして……予の部隊に関係なし。」(下野一霍『南京作戦の真相:熊本第六師団戦記』、東京情報社、1965年12月。)
因みに、下関から中華路一帯までの直線距離は約10~11キロメートルがある。図6参照。郭岐の証言に依ると、その日本兵が80歳の老婦人を見つけた場所は南京城一番西北の下関、事件現場は南京城一番南側の中華路一帯となっている。果たして、その日本兵は谷寿夫師団長が率いる第六師団に属する兵士だったであろうか。また、その兵士が下関で老婦人を捕まえて、わざわざ10~11キロメートルも離れた中華路一帯に連れて行って、暴行を加えたのであろうか。この事件は本当に「衝撃的な真実の出来事」だったであろうか。

図6
出典:門山榮作・東中野修道『共同研究 ジョン・ラーベ「日記」の異同について(5)』
亜細亜大学法学研究所編『亜細亜法学』第52巻2号(東中野修道先生古稀記念号)
亜細亜大学法学研究所発行、2018年1月31日

疑問点その四
郭岐が同書「猥穢下流不倫不類」(卑猥で卑劣、不倫も類を見ない。)の一節の中に次のように述べている。「不幸なことに、私は日本軍が占領した首都南京で足止を食らってしまって、三ヵ月間も過ごしていた。その期間中に、初めて日本軍が婦女暴行を行ったこととして耳にしたのは、南京の下関で80歳の老婦人が路上で暴行された話であった。……80歳の老婦人のことは……人から聞いた話であった。
このように、郭岐が伝聞を「直接目撃した」こととして証言したのは、明らかな偽証罪である。何故、南京裁判の裁判官たちはこんな低次元の嘘を見破ることが出来ず、検証・追及もしなかったのであろうか。

考察五 「十九万人惨遭掃射」の一節について

郭岐が「十九万人惨遭掃射」(19万人が悲惨な掃射を受けた)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
南京大屠殺……ただ城内の被害者だけでも15万人を超えている。私は、この数字が少なく見積られたことがあっても、決して多くないと信じる。
南京陥落後の期間中、私は変装して、一時的にイタリア総領事館に隠れていて、南京城外の空前の大虐殺を目撃していなかった。

 
疑問点その一
南京城城内の「15万人」の「大虐殺」について、集計データ等の証拠や根拠はあるであろうか。証拠や根拠の伴わない数字は信憑性と説得力があるであろうか。
 
疑問点その二
郭岐は、イタリア総領事館に隠れていたため、「南京城外の空前の大虐殺を目撃していなかった」とのことだが、では、城内の「15万人」の「大虐殺」を目撃したのであろうか。そのうちの何件を実際目撃したのであろうか。
 
疑問点その三
郭岐が同書「八十老翁両度遇劫」(八十歳の老人は、二度災難に遭った。)の一節の中に、次のように述べている。「南京の廃墟を逃れる前に、私はあまねく南京の大通りや小路、そして空き地と広場を歩き回り、心の中で、一つの見積もりを立ててみた。
被害者「15万人」という数字も、郭岐が「あまねく南京の大通りや小路、そして空き地と広場を歩き回った」時に目撃したものであろうか。それとも、郭岐が心の中で見積もりを立ててみた数字なのであろうか。何故、漠然とした被害者「15万人」という数字だけを強調し、それに関する証拠や根拠を示さなかったのであろうか。このような捏造や誇張された罪状について、谷寿夫中将が南京裁判の裁判長石美瑜宛ての申弁書(1947年1月15付け)の中で、次のように論破している。「起訴書提示の多数の暴行に関する住民の陳述、告訴裏面を察するに、対日怨恨を晴らさんと欲する者、又は此機会を私利私慾に利用せんとする者等が、南京事件関係各師団長中、被告一人のみが訊問せられあるに乗じ、他部隊又は多方面地域の暴行事項又は、被告部隊蕪湖転進後に発生せる事項等を、被告の関係地域に流用し、其日時も強て被告の部隊の駐留最長期間に合致せしめ、被告一人に罪を負わしめんとするもの、又は暴行以外の原因(例えば戦禍盗難其他)により生起したる損失を、被告の部隊の行ために転嫁せんとするものなしとせず、殊に、十年以前の事件なれば犯行の時期、場所、事実等を如何様にも真実らしく作ためし得るものと思惟す。」(下野一霍『南京作戦の真相:熊本第六師団戦記』、東京情報社、1965年12月)

考察六 「猥穢下流不倫不類」の一節について

郭岐が「猥穢下流不倫不類」(卑猥で卑劣、不倫も類を見ない。)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
審判戦犯軍事法廷三十六年度(1947年)審字第一号判決書が次のように明らかに指摘している。
……日本軍は入城後、四方に強姦に出かけ、ひとえに淫欲を逞しくした。外国人居住民によって組織された国際委員会の統計によれば、民国二十六年(1937年)十二月十六日、十七日の両日、我が国の女性で日本軍に蹂躙された者は千人を越えている。且つその方法の猟奇的で残虐なこと、実に前代未聞である。例えば、十二月廿三日、民間の婦人陶湯氏は中華門東仁厚里五号で日本軍に輪姦されてから腹部を切り開かれ、遺体を焼かれた。妊娠九か月の妊婦蕭余氏、十六歳の少女黄柱英、陳姉妹及び六十三歳の農村婦人まで中華門地区で残酷に汚された。農村の少女丁氏は中華門の堆草巷で、日本軍兵士十三人に輪姦されてから、狂暴さに耐えられず、助けを求める声をあげたので、刀で下腹部を刺されて殺された。同月十三日から十七日までの間に、日本軍は中華門外で少女を強姦してから、通りかかった僧侶に続いて強姦を行うように迫った。僧が拒絶して従わないと、ついには宮刑に処して死に致らしめた。また、中華門外の土城頭で三人の少女が日本軍に強姦され、差恥と憤怒のあまり揚子江に飛び込み、自ら命を絶った。南京に留まっていた中国女性で身に危険が無かった者はおらず、そこで国際委員会の画定した安全区に相継いで避難した。日本軍は国際正義を顧みるどころか、ついにはその獣欲を存分に発揮し、夜ごと闇に乗じて塀を超えて侵入し、老若を問わずやみくもに強姦した。外国人居住民は国際団体の名義で繰り返し日本軍当局に抗議を行ったが、日本軍司令官の谷寿夫らは聞かなかったかのように放置し、部下に以前通り、ほしいままの暴虐をしたい放題にさせておいた。
南京裁判のこの判決書の大部分は、私の確実たる証言に基づいて判定されたものである。

 
疑問点その一
「この判決書の大部分」に記されている罪状が発生した現場を、郭岐が一人でどのようにして目撃していたのであろうか?「大虐殺」があったとされる期間中、また日本軍による敗残兵(便衣兵)摘出活動が行われた期間中、郭岐は奇しくも容易に複数の現場を目撃することが出来たのであろうか。郭岐は日本軍から疑いをかけられることは一度も無かったのであろうか?
 
疑問点その二
南京裁判に於いては、郭岐が証言した「この判決書の大部分」の罪状について、徹底的な検証が行われたのであろうか?筆者の知っている限りでは、谷寿夫中将に対する裁判は、開廷から死刑実行まで、審理時間は僅か80日しか無く、上記諸罪状に関する徹底的な検証が全く行われていなかったのである。単一の証人による複数の証言を鵜呑みにして、谷寿夫中将に死刑判決を下した南京裁判は、まさに茶番劇と言わざるを得ない。

考察七 「十里江浜大屠殺場」の一節について

郭岐が「十里江浜大屠殺場」(長さ十里の揚子江沿岸が大虐殺の修羅場となる)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
彼(郭岐の当時の部下で、言心易という士官を指す。以下同じ。注記筆者。)は身をかがめて一目見ると、靴底から靴面まで、赤々と湿りっぽく、なんと1〜2寸(3.3~6.6センチ。注記筆者。)の厚さまで血の塊で覆われていた。数万の戦友たちが無辜に惨死を遂げた彼らの血は、凍てつく寒さのため、ねっとりとまとまった血塊となってしまっていたのである。
彼は死体の山の上にうつ伏せに倒れた。
彼は頭の上にある鉄兜が日本兵に力強く引き剥がされ、重く彼の胸に叩きつけられるのを感じた。その一撃は本当に痛かったのだが、彼は微動だにしなかった。……彼はただ腹ばいのままになっていた……。彼は相変わらず動かずに腹ばいのままになっていた。

 
疑問点その一
靴は、厚さ3.3〜6.6センチの血塊に覆われていた。この光景は、恐らく戦争の記録として世界初の、「白髪三千丈」ならではの怪談と言えるであろう。南京裁判の軍事法廷に於いて、軍人裁判長の石美瑜をはじめとする裁判官たちは、この話を疑わずに信用したのであろうか。
 
疑問点その二
うつ伏せに倒れた人の胸に、どのようにして鉄兜を叩きつけることが出来るのであろうか。このような小賢しい嘘が、南京裁判の裁判官たちに見破れられないのは何故なのであろうか。

考察八 「半老徐娘大遭其殃」の一節について

郭岐が「半老徐娘大遭其殃」(中年女性が暴行される)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
イタリア総領事館の隣に、立派な洋風の建物がある。
私の泊っている部屋の窓から眺めると、向かいの部屋の光景を一望することが出来る。そこには40〜50人の難民が移り住んでいた。その中には10人以上は子連れの中年女性であった。
ある日、隣の洋風の建物の外に数十人の日本兵の姿が現れた。日本兵達は、大広間の男性達を追い出して、中年女性達を集めて、子供達の前で、白昼堂々、大広間の中で中年女性達の衣服を一枚残らず脱がせた。そして集団で彼女達を犯し始めた。三人の日本兵が一人の女性を、又は五人の日本兵が一人の女性を犯して、なかなか止めなかった。暴行された女性達は、初めは大声で泣き叫んだが、後には命乞いをする言葉だけとなった。子供達はこのような恐ろしい光景を目にしたことがなく、皆泣き出した。その時、人間性を失った日本兵は、手を一つ空けて、子供の頭を撫でて、無神経にも、「怖がるな」「泣くんじゃない」「お母さんはすぐ来るよ」等と言った。

 
疑問点その一
南京が陥落したのは1937年12月、真冬の季節であった。南京イタリア総領事館とその隣の洋風の建物の窓は、普段閉めてあると思われる。郭岐が窓越しに、向かいの建物の大広間の中で繰り広げられていた出来事の一部始終をつぶさに目撃することが出来るであろうか。
 
疑問点その二
郭岐は、窓越しに、日本兵の話す日本語を生々しく聞き取ることが出来るであろうか。そして、そもそも、郭岐自身が日本語を理解出来るのであろうか。

考察九 「愛国一課永遠難忘」の一節について

郭岐が「愛国一課永遠難忘」(愛国の授業、永遠忘れない。)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
ある時、南京城内の難民達は、どよめく飛行機の轟音を聞いた。30余万の難民が総動員して、高い場所へ駆け上がった。多くの人々が喉を枯らし、渾身の力を尽くして狂喜の叫び声を上げ、我方の飛行機を応援した。
「ご覧なさい。我々の飛行機は煙幕弾を使って中という字を描き出したじゃないの。」
「ほら、あちらには二つ目の字も出来た。はは、それは央という字なのよ。」(中央は中央軍、即ち、蒋介石が直接指揮する軍隊を指す。注記筆者。)

 
疑問点その一
「南京大虐殺」肯定派の主張によれば、日本軍が南京城を攻略した後、「大虐殺」があったとされている。しかし、「大虐殺」が実際にあったならば、何故「30余万の難民」が「大虐殺」を恐れずに、「総動員して高い場所へ駆け上がって」、飛行機を見に行ったのであろうか。
 
疑問点その二
郭岐が、「30余万の難民が総動員して高い場所へ駆け上がった」場面を自分の目で見たのであろうか。そもそも、安全区内にその場面を一望出来る場所はあったのであろうか。因みに、安全区を設立・運営していた南京安全区国際委員会の委員長であったジョン・ラーベの『ラーベの日記』、南京国際赤十字委員会の委員で、金陵女子文理学院のミニー・ヴォートリン(教授、宣教師)の日記等に、30万余りの南京難民が総動員して高い場所へ駆け上がって国軍の飛行機を見に行ったという一大出来事に関する記述(記録)は全く見当たらない。
 
疑問点その三
飛行機が煙幕弾を使って、空に「中」、「央」の文字を描くことが出来るであろうか。また、日本軍に依って占領された南京の上空に、国軍の飛行機が飛来し、優雅にパフォーマンスを披露することは可能であろうか。
 
疑問点その四
郭岐が「烈焔騰霄一焼三月」(烈火が天高く舞い上がり、三ヵ月間燃え続ける。)の一節に次のように述べている。「十年半に亘る建設、政府と民衆の努力が、極悪非道の日本軍が放った火の中で燃え尽くされ、すっかり灰燼に帰した。……大火が長く燃え続け、街全体が激しい炎と濃い煙に包まれ、空気汚染は前代未聞の深刻さであった。激しい炎が天高く舞い上がり、黒い煙が立ち込める。極寒の冬、燃え盛る大火によって、身体中に汗が噴き出し、朝から晩まで、日々忍耐を強いられた南京の人々が、この大火の灼熱に耐え続けた。大火は三か月間燃え続けていた。
「大火が長く燃え続け、街全体が激しい炎と濃い煙に包まれる」中、30万の難民が一斉に連れ立って出かけることが有り得るであろうか?
また、「激しい炎が天高く舞い上がり、黒い煙が立ち込める」中、飛行機が煙幕弾を使って、空に文字を描くことが出来るであろうか。

考察十 「指鹿ため馬虎口逃生」の一節について

郭岐が「指鹿ため馬虎口逃生」(鹿を指して馬と言う。虎の口を逃れる。)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
もう一つ、私が目撃した悲惨な出来事がある。
私はそれを非常に鮮明に覚えている。この出来事は、南京市北平路34号の大邸宅の敷地内で起こった。その敷地内には数十人の難民が住んでいた。
一群れの日本兵がやってきて、堂々とその敷地内に侵入し、至る所を捜索した。……日本兵がこじ開けられたトランクや箪笥を銃剣でめちゃめちゃに荒らした。……そして、信じられない程の酷い光景が現れた。多くの男性や女性の前で、日本兵は堂々とベルトを緩め、ズボンを脱ぎ、トランクの上にしゃがんで、そこで排便をし始めたのである。

 
疑問点その一
日本兵がトランクの上にしゃがんで排便している光景を、郭岐が実際に目撃したのであろうか。排便というような話の落ちの付け方は、日本軍ないし日本人を貶めるための手法として、いかにも中華的な発想に相応しい。南京裁判の裁判官、検察官、弁護士達はこのような突拍子もない話をどう受け止めていたのか、知りたいところである。
 
疑問点その二
日本軍に占領されていた南京で、郭岐が奇しくも様々な出来事の場面を目撃していた。「大虐殺」を行ったとされる日本軍が何故いつも郭岐にだけ見物または現場への立会を許可したのであろうか。果たして郭岐には日本軍から特別な特権が与えられていたのであろうか。それとも郭岐と日本軍との間に何らかの特別な繋がりがあったのであろうか。この摩訶不思議な謎に、南京裁判の裁判官、検察官、弁護士達は少しも疑問を抱かなかったのであろうか。

考察十一 「湖泊池塘死屍淤積」の一節について

郭岐が「湖泊池塘死屍淤積」(湖や池に死体が堆積する)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
筆者はここで、読者に日本軍の残虐な手法と野蛮な本性を明確に理解させるために、日本軍による大規模な捜索と大量虐殺の期間中に自分の目で見た出来事を追記する。筆者の目撃によれば、2週間にわたる大量虐殺の後、首都南京の城内と城外の大小様々な湖や池は死体の無いものは一つも無かった。死体がいっぱいに積み重なった処があれば、沈んでいた死体が水面に浮上し、一面に広がっていた処もあった。……民国26(1937年)の西暦12月12日は旧暦の11月10日に当たり、南京はこの以降、凍りつく氷や雪の極寒の季節となり、30万体もの死体が大自然に凍結され、朽ちることも腐敗することも無かった。
 
疑問点その一
郭岐が1937年12月13日より南京イタリア総領事館に逃れて、安全区に三ヵ月間、隠れ住んでいた。当時、南京は日本軍によって占領されていた。「大虐殺」があったとされる期間中、また日本軍による敗残兵(便衣兵)摘出活動が行われた期間中、昼夜問わず、郭岐が何故日本軍の監視下で南京の城門を自由に出入りし、大小さまざまな湖や池を見ることが出来たのであろうか?
 
疑問点その二
大自然に凍結されて、沈んでいた死体がどのようにして浮上し、湖や池の水面に広がることが出来るのであろうか?
 
疑問点その三
ちょうど30万体の死体は、郭岐が自分の目で見て数えた数字であろうか。
 
 
疑問点その四
「2週間にわたる大量虐殺」と「30万体もの死体」という記述を手掛かりにして計算すると、平均一日当たり21,429人が「虐殺」されたことになる。同書「八十老翁両度遇劫」の一節の記述によれば、郭岐が南京を脱出する前に、あまねく南京の大通りや小路、そして空き地と広場を歩き回った、という。郭岐が街中を歩き回った時、「大虐殺」の場面を目撃したことはあるであろうか。一回もその場面に遭遇したとの記述が無いのは何故であろうか。

考察十二 「三寸金蓮巍立樹樁」の一節について

郭岐が「三寸金蓮巍立樹樁」(纏足の老婦人が切り株の上に立たせられる)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
ある日、一群れの日本兵が60歳を超えた纏足の老婦人を捕まえた。日本兵達は彼女を娯楽の道具として利用しようと考え、弱々しい彼女に見事な特技パフォーマンスを強制しようとした。
日本兵達は彼女を村の外に連行した。村の外には何本かの木があり、日本兵達はそのうちの一本を選び、鋸を使ってその木の三分の二を切り倒した。僅かに残されたのはその木の三分の一だけであった。その残った部分からは、一本の切り株が出来た。その切り株の直径は僅か五寸(約15センチメートル。注記筆者。)であるが、地面からは一丈余り(約3.3メートル。注記筆者。)もの高さがある。
日本兵達は彼女を持ち上げて、切り株の上に載せた。彼女は纏足の足であった。彼女は切り株の上に載せられて、体が覚束なく揺れ動いていた。その光景に日本兵達は皆拍手喝采し、大声で笑った。彼女は日本兵達に捕まった瞬間から既に震え上がり、恐怖に魂を抜かれていた。彼女は日本兵達からこのような虐待を受け、寒風にさらされて全身が凍える中、纏足の足はますます彼女の体重を支え切れず、ついに彼女は切り株から地面に突っ込んで転落下した。頭から血を流した彼女を見て、日本兵達は一斉に笑い声を上げた。しかも、笑いが収まった後も、日本兵達は彼女に対して一切の情け容赦を示さず、再び彼女を持ち上げて、切り株の上に載せた。
彼女は、連続して3回転落し、ついに命が絶えてしまった。

 
疑問点その一
日本兵は、切り株を作るために何時も鋸を携帯していたのであろうか?
  
疑問点その二
日本兵はどのようにして60歳の老婦人を高さ3.3メートル、直径15センチメートルの切り株の上に持ち上げて、立たせたのであろうか?戦時中、日本兵達が南京で行ったこのかなり巨大な想像力を要する出来事が何回起きたかをどうしても知りたいところである。
 
疑問点その三
「纏足の婦人をからかう目的ならば」、わざわざ鋸を使って、高さ3.3メートルの切り株を作るのは、「大変な労力である。その辺の適当な石の上か、木材の上に立たせれば目的は達せられよう。」(「」の中の文章は、北村稔『「南京事件」の探求――その実像をもとめて』(文芸春秋、平成13年11月20日、ISBN 4-16-660207-1)より引用。)日本兵がわざわざこのような手間のかかる行ためをすることは考えられるであろうか?
 
疑問点その四
日本兵が60歳の纏足の老婦人を村の中から村の外へ連れて行った道中、郭岐がずっと尾行していて、日本兵に気付かれなかったのであろうか。
若し、この出来事の一部始終を郭岐が自ら目撃したならば、日本兵は何故、郭岐の見物または立ち合いを許可したのであろうか?

考察十三 「美国領館連殺四人」の一節について

郭岐が「美国領館連殺四人」(米国領事館で連続四人が殺害される)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
アメリカ領事館のアメリカ人職員が引き上げる前に、彼らは中国人労働者4人を雇って門番と財産管理を任せた。
ある日、日本兵がアメリカ領事館にやってきた。雇われた中国人労働者4人は、アメリカ人の指示に忠実に従い、落ち着いて動じなかった。日本兵は武器を持って、整列してやってきて、アメリカ領事館を包囲してから、扉をノックした。4人の中国人労働者はアメリカ領事館の大門を開けた。
日本兵が室内に押し入り、貴重品を持ち去り、一部の家具を壊したが、4人の中国人労働者は目を見張ることなく、敢えて見なかったことにして、一つの寝室に入り、四人が肩を並べてベッドの端に腰かけ、ゆったりとおしゃべりしていた。
日本兵の将校が4人の中国人労働者がいる寝室に乱入してきた。日本兵の将校はその4人の中国人労働者に向かって命令した。「お茶を出せ!」
しかし、中国人労働者は無視するように答えた。「お茶はない。」
日本兵の将校は再び厳しい口調で言った。「タバコを出せ!」
中国人労働者達は不愛想な表情を浮かべて答えた。「私達はタバコを吸わない。」
日本軍の将校が激怒した。彼はすぐさま腰から拳銃を取り出し、ベッドに座っている4人の中国人労働者を狙い、乱射した。4人の中国人労働者は全員、その部屋で殺害された。死体が散乱し、ベッドは血の跡で覆われた。この4人の中国人労働者は無実のまま命を奪われた。

 
疑問点その一
4人の中国人労働者が全員死んだ。そうすると、生々しい情景と会話の描写を含め、アメリカ領事館館内、特に寝室内で起こった出来事の一部始終は、郭岐がどのようにして知り得たのであろうか。現場に立ち会ったのであろうか?それとも日本兵から直接聞いたのであろうか?
 
疑問点その二
郭岐が同書「当庭弁論質谷寿夫」の一節に次のように述べている。「私が提供した証言は、9年以上前の出来事であり、私が直接目撃しただけではなく、全てが検証可能な事実である。
9年前にアメリカ領事館内(寝室内)で発生したこの出来事は、4人の中国人労働者が全員亡くなり、更に、該当する日本兵とその将校が特定されておらず、その検証がどのように可能であると言えるのであろうか。

考察十四 「三冬蝋月屍臭熏天」の一節について

郭岐が「三冬蝋月屍臭熏天」(真冬の季節、死体の臭いが空中に立ち込める。)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
南京で日本軍による大量虐殺が始まって以来、実に2週間が経った。それまで私は一度も外出せず、昼間に大通りを歩くことは初めてであった。周囲を見回すと、道路の両側に横たわる死体が見えるが、その数は数えられなかった。この真冬の厳しい季節、氷と雪に覆われた世界で、それらの死体は腐敗の悪臭を放っている。
 
疑問点
郭岐が同書「湖泊池塘死屍淤積」(湖や池に死体が堆積する)の一節に南京裁判の判決書を引用して次のように述べている。「民国26(1937年)の西暦12月12日は旧暦の11月10日に当たり、南京はこの以降、凍りつく氷や雪の極寒の季節となり、30万体もの死体が大自然に凍結され、朽ちることも腐敗することも無かった。」一方、本節に於いて、「死体は腐敗の悪臭を放っている」と言っている。矛盾しているのではないであろうか?

考察十五 「烈焔騰霄一焼三月」の一節について

郭岐が「烈焔騰霄一焼三月」(烈火が天高く舞い上がり、三ヵ月間燃え続ける。)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
1937年12月3日、首都南京は日本軍によって占領された。十年半に亘る建設、政府と民衆の努力が、極悪非道の日本軍が放った火の中で燃え尽くされ、すっかり灰燼に帰した。その中には、300万元の費用を費やして建設された、目も奪わんばかりに華麗な交通部の建物も含まれていた。
 
疑問点
事実上、交通部の建物は、日本軍ではなく、蒋介石が率いる国軍によって焼失されたことが、中国側の一次史料にはっきり記載されてある。
南京戦で南京城挹江門を守衛する国軍第七十八軍第三十六師工兵中隊の蕭兆庚中隊長が「第三十六師保衛南京与大潰退」(中国人民政治協商会議全国委員会文史史料委員会編『文史資料存稿選編――抗日戦争(上)』、中国文史出版社、2002年8月、ISBN 7-5034-1254-2)の中に次のように書いている。「(1937年)12月13日の午後4時頃、司令官の宋希濂が挹江門内の指揮所で、中隊長以上の将校を緊急に召集し……、工兵中隊長の私に対して、本日(13日)の午後8時までに、中山北路の軍政部、交通部と鉄道部を焼却するためのガソリンや灯油などを用意し、8時半からこれらの建物を焼却するよう命令した……。私は速やかに中隊本部に戻り、第一連の連隊長である王滌陳に交通部の建物を燃やすための燃料を、第二連の連隊長である朱厚鴻に軍政部と鉄道部の建物を燃やすための燃料を用意するよう指示した。そして、8時半になると、彼らに火を放つよう、命令を下した。」

考察十六 「八十老翁両度遇劫」の一節について

郭岐が「八十老翁両度遇劫」(八十歳の老人は、二度災難に遭った。)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
南京の廃墟を逃れる前に、私はあまねく南京の大通りや小路、そして空き地と広場を歩き回り、心の中で、一つの見積もりを立ててみた。
 
疑問点
南京陥落の日(1937年12月13日)より、郭岐が南京イタリア総領事館に丸二週間隠れ住んでいて外出しなかった。そして、1938年3月12日、南京を脱出した。そうすると、郭岐が、二ヵ月半の間にあまねく南京の大通りや小路、そして空き地と広場を歩き回ったことになる。南京が陥落した後、「大虐殺」があったとされる期間中、また日本軍による敗残兵(便衣兵)摘出活動が行われた期間中、郭岐はどのようにして日本軍の監視の目を逃れ、あまねく自由に南京の大通りや小路、そして空き地と広場を歩き回ることが出来たのであろうか?

考察十七 「陶宝慶落水当漢奸」の一節について

郭岐が「陶宝慶落水当漢奸」(陶宝慶が変節して漢奸になった)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
南京が陥落してから一ヵ月以上経ったにもかかわらず、漢奸(日本人に協力する中国人に対する蔑称。裏切り者、売国奴の意味。以下同じ。注記筆者。)や偽組織(非合法組織の意味。以下同じ。注記筆者。)はまだ現れていない。
日本人は水を飲む前や食事をする前に、必ず漢奸に毒見をさせるのである。
一ヵ月以上経過しても、日本人はまだ南京で一人の漢奸を見つけることが出来なかった。

 
疑問点その一
郭岐が本節で「南京が陥落してから一ヵ月以上経ったにもかかわらず、漢奸や偽組織はまだ現れていない」と言っているが、一方、郭岐が同書「一時権宜之計者流」(一時的な都合による策略家達)の中に次のように述べている。「1938年初め、旧暦1月1日、偽組織の正式成立を祝う式典が行われた。
南京安全区国際委員会委員長ジョン・ラーベが1937年12月31日の日記に次のように書いている。「明日、1938年1月1日、自治政府が盛大に発足、あるいは言い換えれば、結成されるであろう。」実際の所、所謂「偽組織」――南京自治委員会は、1937年12月23日(即ち、南京陥落後の十日目)に発足され、1938年1月1日元旦の日、南京自治委員会の成立を祝う式典が行われたのである。郭岐の言う「旧暦1月1日」は西暦の1938年2月11日に当たり、全く辻褄が合わず、一ヵ月以上ずれていることが明らかである。
また、郭岐が「あまねく南京の大通りや小路、そして空き地と広場を歩き回った」時、南京自治委員会の五色旗を目にしなかったのであろうか?

1937年12月23日、南京自治委員会成立式典及び五色旗 (ネット写真)
五色旗 (https://aucview.aucfan.com/yahoo/r130381070)

疑問点その二
郭岐が、「日本人は水を飲む前や食事をする前に、必ず漢奸に毒見をさせる」に続いて、「一ヵ月以上経過しても、日本人はまだ南京で一人の漢奸を見つけることが出来なかった」と書いている。では、漢奸を見つけることが出来なかったあの一ヵ月間、日本人は飲み食いせずに生き延びることが出来たのであろうか。餓死した日本人が一人も出なかったのであろうか?

考察十八 「一時権宜之計者流」の一節について

郭岐が「一時権宜之計者流」(一時的な都合による策略家達)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
広大な南京城。難民区の外は、市民どころか、犬すら一匹もいない。
 
疑問点
郭岐が「十九万人惨遭掃射」(19万人が悲惨な掃射を受けた)の一節に次のように述べている。「南京大屠殺……ただ城内の被害者だけでも15万人を超えている。」そうだとすると、難民区の外は一人もいないので、城内の被害者15万人は全部、難民区にいた人達の筈である。しかし、当時、安全区を設立・運営していた南京安全区国際委員会委員長のジョン・ラーベの『ラーベの日記』、南京国際赤十字委員会の委員で、金陵女子文理学院のミニー・ヴォートリン(教授、宣教師)の日記等に、難民区内で15万人が被害に遭ったとの記述(記録)は全く見当たらない。何故であろうか?

考察十九 「防空司令幸得不死」の一節について

郭岐が「防空司令幸得不死」(防空司令官が命拾いした)の一節に次のように書いている。
抜粋意訳
日本軍は飛行機を出動させ、続々と集まってくる難民の中に一つの爆弾を投下し、数多くの死傷者を出した。しかし、幸いにも飛行機の操縦士は、難民の中に一生懸命秩序を維持しようとしている日本の憲兵がいることに気付き、身内同士の殺し合いを避けるために爆撃を中止した。
日本軍の兵舎では、毎夜のように、熟睡から突如として目を覚まし、「中国兵が来た~」と、声高にわめき立てる者がいた。更に、車中の日本兵の運転手が、逃げるように運転席から地面に飛び降り、両手で頭を抱えて、「中国兵が来た~」と、叫びわめく者もいた。

 
疑問点その一
地上にいる郭岐がどのようにして、空を飛んでいる飛行機の操縦士が思っていることとその一挙手一投足を知り得たのであろうか?
 
疑問点その二
郭岐がどのようにして、毎夜兵舎の中で眠っている日本兵や自動車運転手の行動を詳細に把握出来たのであろうか?

考察二十 胡乱な「大虐殺」死者数について

『陥都血涙録』の中で、「南京大虐殺」死者数が計16回、見られる(南京裁判判決書の引用を除く)。その内訳は下記の通りである。
1.「従新疆到軍事法庭」の一節「10余万」3回
2.「当庭弁論質谷寿夫」の一節「10余万」1回
3.「悪貫満盈最後下場」の一節「30余万」2回
4.「十九万人惨遭掃射」の一節「30万以上」1回
5.「十里江濱大屠殺場」の一節「30万以上」1回
6.「湖泊池塘死尸淤積」の一節「30万」1回
7.「一時権宜之計者流」の一節「30万以上」1回
8.「被害軍民何止卅万」の一節「30万」2回
9.「命相家霊験的予言」の一節「30万」1回
10.「自序」(日付1978年7月)「30余万」3回
中華民国政府代表の顧維鈞は、1938年2月2日に開催された国際連盟第100回理事会第6次会議で次のように述べた。「The number of Chinese civilians slaughtered at Nanking by Japanese was estimated at 20,000.」(南京で日本軍によって虐殺された中国の市民の数は、約2万人と推定される。)ここで指摘しておきたいのは、顧維鈞が言う「約2万人」は所詮、一方的な推定に過ぎず、確証に基づくものではない。要は、1938年2月当時、中華民国政府は、「南京大虐殺30万人」という概念をまだ持っていなかったのである。
また、上記郭岐が言う「大虐殺」の死者数もなおさら根拠が不明であり、口から出任せのようなものにしか思えない。

結論:
 
1.『陥都血涙録』は完全なる作り話、風聞と嘘に基づいたものであり、証拠としての価値は皆無である。
 
2.従って、南京裁判やその判決に於いて嘘だらけの『陥都血涙録』が証拠として採用され、判決が下されたことは、断じて誤審誤判であり、公正性と手続き的正義が欠如していると断言出来る。
 
3.南京裁判は、当時の中華民国政府が政治的目的のために真実を歪曲し、谷寿夫中将を不当に迫害し、死刑に処した。中華民国政府によって作られたこのとんでもない冤罪は、歴史における恥じるべき黒い一頁として刻まれるべきものである。

 
 
謝辞
本考察文の作成にあたり、六衛府さんより貴重な意見を賜りました。心から感謝申し上げます。

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