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十年後息絶えるとして、

薄い水色の空になんとなくほっとした。たいして特別でもない、その静かな晴れ空がきれいだと思った。
ある日の午後、散歩道と選んだのは初めて歩く街だった。かつて電車通学でよく使っていた路線沿いで、住むには人気のエリア。感じたのは繊細な命の気配だ。
その日は閉じていた立派な斎場、動物園へつながる道、デイケア施設の窓の向こう側には片付けをする職員。人が住んでいる、生き物が住んでいる。そんな当たり前を思い知らされるような心地だった。
息づいていることの繊細さが漂う空気は、その街のちょっとした特徴(わたしの偏見に過ぎないかも)を思えばたしかに納得がいくものだ。それでいて人気エリアであることを少しも妨げない。
ただなんとなく、この通りにはわたしは住めないかもなあと考えた。おだやかさよりも不安が拭いきれなかった。
だけど、それはどうしたって現実なのだと思う。
いつか生を終える時、やりきったと思えるのだろうか。今のわたしには到底想像ができない。何もかも成し遂げたと思える日はいつまで経っても来ない気がする。
それならば。生き様を後悔したくない、とふと思った。どこかで聞いたセリフ。調べてみると少し前に読んだ漫画の一コマだった。しっかり心に残ってるものだなあ、なんて。
燃えなくたっていい。こういうのって、人による。なんとなくでいい。おだやかでいい。その中で、どうしたいだろう。
命の気配を肌に感じる街並みを通り抜けて、食べ物を求めて辿り着いた景色にほっと力が抜けた。透き通る薄水色の空。なんとなく時間が流れていく。でも不思議と焦らなかった。がんばりすぎないのがきっとわたしの正解だ。ゆっくり前に進むために、生き様というものを考える。
一生のうちにやりたいことを考えてみる。なんだろう、遥か彼方すぎる。長い道のりのように今は思えて、やりたいことがふわっとしてしまう。
十年ならどうだろう。意外とあっという間で、だからこそしっかり取り組める気がする。
さっそく考えてみる。今日から動いてみる。

海外へ行く。まずは一度、それから二度以上。

実はわりと現実的な計画で、今英会話を始めようとしている。
とはいえわたしにとって英語はほんとうに”できない”もので、怖さが勝って実はまだ一歩を踏み出せていない。だけど今すぐできるようにならなくても、長い目で見たら大丈夫かも。
海外に出たことが一度もなくて、英語を使う世界というものに現実味がちっともなかった。
それが転職して環境が変わった今、海外というチャンスに手が伸ばせることを知った。
海外を知らなくてもなんてことはないだろうけれど、わたしはいろいろな世界を知ることに喜びを感じるタイプだから飛び出せるなら飛び出してみたい。ただそれだけの理由だけれど、自分にもたらす影響はとんでもないはずだ。
どうせなら一度で終わらず、広がった世界を自分の視野にしたい。だから二度。自分の足で歩き回ってみたい。

住まいを自由にする。

二拠点生活がしたい、とずっと言っている。どうしてだろう?
それは多分、わたしが福岡から離れきれないからだ。要は、自分が育った場所でない土地に住んでみたいのだ。
二拠点を行ったり来たりでもいいし、一拠点をベースにあらゆる土地を住むように旅するでもいい。好きな街、ちょっと落ち着かない場所、きっといろいろある。その時の自分の状況や誰といるかでも感じ方は変わる。
新鮮さは生きるモチベーションだ。今は知らない、落ち着く場所を見つけられたらいいなあと思う。

全国行きたいところマップを作って制覇する

ここ行きたい!はあるけどぼんやり思ってるだけだなあ、と。せっかくだから目に見える形で一つの計画にしてみたら楽しそう。
わたしはモノよりコトに時間やお金を使いたいと思っている。”体験すること”が好きだ。旅先ではその場所の空気を感じられるとうれしくなる。その土地のご飯も好き。世界でこの場所だけ!みたいなところへ行くことも好き。
やってみたいなー行ってみたいなーと思うことは、たいてい思うだけになりがちだ。きちんとリストアップして、言葉にして、行動に移してみよう。

(社外で)なんらかの形で取材される

これはゴールではなくて、ある目安だ。
多くの人々が生きている中、メディアに出ている人というのはごくごく一部だと思う。メディアの影響力は大きく、そしてそこに映し出される人はなんらかの影響力を持っている。
取材されるという目安が示すのは、「よい影響を生み出した実績がある」「それだけの仕事をしている」ということだ。うーん、かなり遠い。
わたしの仕事上の目標として”人々の生活をよりよくするものを届ける”がある。ふわっとしている。このふわっとしたものはともすればあっという間に成し遂げられるかもしれなくて、小さな達成感を重ねていくのかなと思っている。すごくいいことだ。それはそれとして、大きな目標があいまいになっていく気がして、だから今はうんと遠い目安を掲げてみようかなと思った。
それに人の影響ありきで生きてきたところがあるから、自分も誰かになにかしらよい影響を与えられたらいいなーとなんとなく考えている。
そしてもう一つ、この目安を目標とすることでよい副産物がある。それは”見られる”という意識だ。
いつ誰が見ているか分からないよということをある日のちょっとした会話の中で教わった。たしかに世界の狭さをひしひしと感じる日々で、だけどその”見られている意識”はどうしても薄れがち。見られている方が何かとちゃんとするわたしにとって、その意識は重要だ

資産運用する

これも目的・やりたいことではなくあくまで手段だとは思う。好きなことをよい心地でやり続けるための手段。
今はまだ遠い。でも十年あればほどよく現実的。状況は変わるかもしれないから、ほんとうに手段でしかない。

この文章を書くために考えてみた。やっぱり言葉にするのはいいなあと思う。そしてほんのちょっと、焦る。笑
自分をいい感じに動かす、よい焦りだ。(もっといい言葉、ないかな。)
やりたいことがあって、そのために動いて、わくわくして。たまには気を抜きながらも、とけすぎない感じ。
十年はきっとあっという間だ。そして人生を考えるのにほどよい。一生はやっぱり遠すぎる。いつ終わるかも分からないのに、だからこそ果てがなくて。
自分の手と目が届く距離感でいろんなことを考えると、あの日あの街で感じた不安もうまく呑み込めるかなあと思う。
わくわくすることを考えて、さっそく一歩動いてみよう。

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