さるすべりの花をたくさん見た日



喫茶店で本を読んで、バスに乗ってなんとなく神社に向かっているとき、街、という漢字が好きだなと考えたりしていました。
もしくは、まち、という音が好きなのかもしれないし、去年絵にも描いた「街クラゲ」が好きなのかもしれないし、映画の『街の上で』が好きだからなのかも、とも思いました。


あと、コップも好きです。
透明なものが好きだからかもしれないし、「コップに水が半分しか入っていない」と、「コップに水が半分も入っている」、みたいな話について考えるのが好きだからかもしれないです。



自分の名前の漢字を、文や詩の中に見つけると嬉しくなります。
だいたい、詩集の中に、名前の二つの漢字がそれぞれ出てくる、ということに最近気づいて、誰かの日記の中にも出てきたりして、
たまに一つの詩の中で、その漢字二つともに出会ったりして、そういうときはその詩に、その言葉を書いた人に、親しみを感じます。



今日はさるすべりの花がどういう花なのかを覚えました。
散歩をしていていつもよりものんびり歩いていたので、さるすべりの花が咲いているのをたくさん見つけて嬉しかった日でした。百日紅、と漢字で書くことも知りました。


春夏秋冬だけではなく、行ったり来たりを繰り返しながら季節が少しずつ移っていく流れを、ゆっくりしっかり観察していると気づくことができるのだ、と今年の春の初めくらいに気がつきました。
知らなかった花の名前を知ることで、いつも歩いている道が、少し新鮮に思えるような感じもあるかもしれないな、とも思います。



今日の夕方は、夏の始まりという感じはなく、もう夏が終わりに差し掛かっているような、そんな空気を感じたような気がします。


百日紅の花に引き寄せられるように、いつもは入らないような道を通ってみると、知らなかった小道に出くわしたりして、長く住んでいる場所の、違う表情を見たような感じでした。




住んでいるところは、坂が多くて、家もたくさんあって、空が狭いなあと思っていたけど、今日、坂を上って考えたのは、自分が歩いている坂の地面ばかり見ていると、たしかに、視界に空はあまり入ってこないけど、ゆっくり上のほうを見ながら歩くと、意外と空が広く見える、ということでした。


今までより少し、住んでいるところが好きだと思ったような気がするし、夏には百日紅の花を見れる、ということに気づけて、暑くて苦手なこの季節の、好きだと思えるところが一つ増えて、嬉しくなりました。



初詣でしか行かない神社に今日は寄ってみました。それは、散歩するのにちょうど良い公園があまり近くになくて、なんとなく森のような木々の中に行きたいと思いついたからだと思います。
今まで気がつかなかったのですが、猫がたくさんいて、三匹くらいに出会いました。
猫と目が合って、何か心の底を見られているような気がして、少し緊張しました。



犬や猫が好きな人の前で、今まで表立って言えなかったことですが、実は動物に対して少しこわいと思ってしまいます。
犬や猫と一緒に暮らしたことがなくて、私はまだ動物と親しくなる前の段階にいるのかな、とも思ったりもするのですが、きらいなわけではなく、仲良くなりたい気持ちはあっても、例えば目の前にいる猫が、何を考えているのか、次にどういう動きをするのか、そういうことが分からないから、こわいと思ってしまいます。
着ぐるみの近くに行くのをこわいと思うのも、もしかしたら同じ理由かもしれないです。



前にメモで、
不確かさを認め受け止める広さを持つ、と書いていたのを思い出しました。

分からないことって、不安になるし、こわいけど、そういう不確かなことを、理解したり乗り越えるまではしなくても、心の中にそのまま置いておくくらいの、そういう広さを持っていられるようにしたいなと思ったりします。





最近考えていたことの一つに「なおす」という言葉があります。

西の方の地域では、修理するという意味ではなく、片付けるという意味で使うことがあって、この前、私もうっかりその意味合いで使ってしまって、「直す?」と聞き返されてしまったことがあって、その時から、なんとなく「なおす」ということについて考えていました。

片付ける、という意味よりは、元あったところに戻す、元の状態にする、みたいな意味と近い感じで私は捉えているのかもしれないですが、この言葉がなんとなく好きです。

「整える」は、そのために綺麗に並べる、みたいな感じがするけれど、「なおす」はもとの凪の状態にする、みたいな感じがあって、なんとなく自然な良いところに置く感じがあって、そういうのが好きなのかもしれないです。




この前読んだ本の中で、自信について書いてあるところがあって、自信についてもこの一週間くらい考えたりしていました。
本には、仕事について書いてあって、仕事をしていき経験を積んでいくごとに自信がつくように考えられているかもしれないけれど、実際には逆で、経験を重ねていくほど、自分の出来ないことを知ることになり、どんどん自信がなくなる、最初の頃の何も知らない時のほうが自信はたくさんあった、
というようなことがあって、なるほど、と思いながら、人との関わりの中でも似ているところがあるな、ということを考えていました。



初めて話す時の方が、お互い何も知らないし、後先のことをあまり考えないから、明るい自分のままで話すことができたり、話しにくいような悩んでいることをすんなり話すことができるけれど、

だんだんとお互いに知り合ううちに、面白い話もできない自分に自信がなくなったり、明るくはない話を細かく話すことへの躊躇が生まれたりして、なんだか言葉が出てこないなあ、みたいなことを感じることがあったり、
ずっとそういうことが続くわけではなくて、安心して、リズムにも慣れて、話せる時もあるけど、関係性がどんどん重なっていき、スムーズではないと感じることも現れてきたりして、そういうものなのだと思うけれど、それが人と関わっていくことの妙なのだとも思うけど、ちょっと自信が見当たらなくなる時はあります。


だからこうしよう、みたいなことを思いついたわけではないですが、なんとなく、素直でいるように心がけたいです。
私は頑固だしすぐに強がってしまうので、できるだけ、素直で、ごまかさずにいられたら良いなと、そうするようにしようと、思います。




7月は、自分でもびっくりしてしまうくらい、外で涙が止まらず手も震えてしまう、ということがあって、でもそのあとも元気に生活している自分がいて、なんだかそのスピードに追いつけないです。
でも、一週間に一度くらい新聞を買ってニュースを知るようにしていたけど、それもできなくなってしまいました。どうしよう、大丈夫かな、みたいな不安はあります。しばらくの間は、新書が出て、それを読む、くらいの速さでしか情勢をつかめないかもしれないと思ったりもします。



最近、勝手に人のことを心配しないようにしよう、と少し考えたりしました。それは、人から心配されると、なんとなく、いやいやそんなに心配しなくても、なんとかするから、放っておいてくれ、みたいな気持ちになるかもしれないな、みたいなことを考えたからかもしれないです。でも私は、心配してくれた優しさがとても嬉しい時はあって、だから、私もそういう優しさを周りに向けられるようになりたいなと思うけど、独りよがりな一方通行の心配はしないでおこう、と思いました。



裏の裏まで考えたりすると疲れてしまうので、素直に、ただ素直に、川のような風のような自然な感じでいたいな〜と今日は思っています。