見出し画像

行き止まりの先の路地裏、水たまりの花びら



久々に電車を乗り過ごした。

ほとんど電車を乗り過ごすことはないけれど、この前行ったライブで聞いて好きになった曲をヘッドホンで聞きながら本を読んでいたら集中していたらしく、気づいたら降りるべき駅を過ぎていた。
次の駅に着くまでのどうすることもできない時間は、どこかすごく遠いところまで来てしまったような気分にさせる。


前に電車に乗り過ごしたときを思い出していた。
当時バイトをしていたパン屋さんからの帰り道で、ホームで電車を待ってる時から涙が止まらず、電車の中でも泣いていた。気がついたら乗り過ごしていて、全然馴染みのない駅まで着いていた。逆向きの電車のホームはすっからかんで、乗った電車も乗客がほとんどいなくて、私はどこまで来てしまったんだろう、という感じになっていた気がする。

たしかその日はバイト中に、注意というか、少しきつく言われて、それがきっかけになって、一人になったタイミングで涙が止まらなくなっていた。
バイトのことだけではなくて、生活全体的に気持ちに負担がかかっていて、ストレスというか、色々感情をため込んでいたのだと思う。


帰りの電車の中で、周りの人のことも気にせず涙を流しながら、ああもう無理だ、と気持ちが切れたのだと思う。その日を最後にそのバイトは辞めてしまった。


しばらくして、謝りに挨拶しに行ったら、
「大丈夫よ、すぐに新しい人見つかったから。」と言われた。
「ごめんね、〇〇さんは自分のこと全然話さないから。」と言われた。


たしかに自分のことを話すのは苦手だと思う。
雑談みたいなのも苦手で、ポンポンと話題が進んでいく会話の中で質問されても、自分のことを話すために考えている間に相手は待ってくれずに勝手に会話を進められてしまうこともあるし、だから私もとりあえず短く返事をして会話を終わらせてしまう。

全然話してくれない、とあなたはいうけれど、じゃあ私が話すのを待ってくれていたんですか、聞こうとしてくれていたんですか、と、今なら心の中で言い返すかもしれない。

話をするのを待ってくれない人に自分の話をする義理なんてないっすよ、とも思う。

ただ、そのバイトを辞めたときにそれを言われたときは悲しかったし意味分かんないな、と思ったかもしれない。


そんなに聞かれる機会は多くないけど、「好きなタイプは?」という定番の質問がある。

私は、自分の話を聞いてくれる人、と答えたりする。
実際のところ、自分の話を聞いてくれる人のことは好きだけど、それだけではなくて、そういう質問をいきなりしてくる人は大体、私の話を待ってくれない人だったりするので、なんというか、相手にはきっと気づかれないカウンターアタックを自分のためにしている感じで、

(あなたみたいに話を聞いてくれない人ではなくて)話を聞いてくれる人が好きです、と答えているような気がする。

性格が悪くてごめんなさい、と思うけど、丸腰でいて嫌なことを言われたら自分が傷つくので、壁を作って守っているんだと思う。


ちなみにこの前大好きな友だちと一緒にお酒を飲んでいて、どういう人を好きになるかを話していたときは、
変な人しか好きにならない、めっちゃ良い人みたいな人が現れたとしても好きにならないもん〜、みたいなことを少し酔いながら話してました。

変な人というか、群れずに一人でいて何を考えているか分からない人がいると何を考えているのか気になってしまう、ということはある。
でも、それ以上に人として好きになるのは、他の人のことを見下さない人、分け隔てなく人と関わる人みたいな人かもしれない、と思ったりする。
話している中でそういうことを思うとその人のことを信じてしまうようになるかもしれない。


---

MONO NO AWAREのDUGHNUTSという曲で、

「『私みたいな人なんて星の数ほどいるよ』
と君は言うけど だから見つけるのほんと大変だったんだよ」
という歌詞がある。

例えば音楽を聞いて、ほんとにめちゃくちゃ好きだと思う曲に出会ったりする。
自分が知らない音楽は数えきれないほどあって、良い音楽も自分が好きだと思う曲もたくさんあるだろうと思う。

ただ、今の自分が偶然に出会い、びびっと刺さった音楽がそれであり、そのことに感動するなら、その出会いが自分にとって重要で大事であるということは確かなのだと思う。

音楽は、自分が忘れない限り(忘れても)残り続けるけれど、人間関係の場合、
途切れないように努力をしても別れが来る時もあるし、何もしなかったあとに迎える結末は自然と関係が消えていくということだと思う。

もっと良い人がいるよ、というような励ましやアドバイスは、一人の人と向き合ったとき、向き合ってしまったときは、ぜんぜん役に立たないというか、意味を持たないように感じたりする。

他にたくさんの人がいるということは分かっている、けど、だからこそ、その人が好きなのだ、ということ、そういう半ば思い込みのようなもので、ロマンチックな振りをしているだけなのかもしれない、とも思うけれど仕方のないことだとも思う。


「穴のないドーナツを食べるときに心がけるべきところは 穴があったことに感謝をすること」
という歌詞もある。
あなたがいない毎日を過ごしているときに、あなたがいたことのありがたさを思い出す、みたいなことか、と安直ながら思って、
例えば頭の中に大きな机があって、記憶を思い出すごとに思い出が紙みたいな感じで一枚ずつその机の上に重なっていったりすることを想像したりした。


頭の中の机には、記憶が紙のような大きな写真のようなものとして積み重ねられていて、過ぎたことは思い出すことしかできない。
その不可逆さは、あまりにも当たり前のことだけど、私は、私たちは、不可逆な毎日の中で生きているんだ、ということについて改めて考えたりする。


---

去年の5月に、駅のホームで白い杖をついている人を道案内したことがあった。

人で溢れかえったホームで私は電車を待っていて、待ち合わせに向かっていて、すでに人を待たせていたので、気持ちは急いでいた。

そのときに白杖をついた女の人がホームの前の方へ向かって歩いていて、さすがに止まるだろうと思って見ていたら杖はホームの先に出てもそのお姉さんは止まらず、近くにいた女子高生が腕を引っ張ってお姉さんを後ろに引いたので事なきを得た。電車は30秒後くらいにきた。私は周りにいた他の大人たちと同じで、ただ見ていただけだった。


電車に乗るつもりだったけれど、その白杖をついたお姉さんが電車に乗らずにホームに立っているのを見て、
待ち合わせに遅れてもいいや、あの人なら理由を説明したら分かってくれる、と思って、私も電車に乗らずその人に声をかけることにした。
その人は改札を探していて、その改札を出て乗り換えをしたいとのことだったので、改札まで一緒に行った。
人で溢れたホームは騒がしく、普段出さないような大きな声を出して「もうすぐ階段です!」とか言ってた気がする。
改札まで見送ってその人と別れた。

さっきその人がホームから落ちそうになってるのを見てただけだった自分に対して折り合いをつけたかっただけなのかもしれない。
その人の役に立ったか、よく分からない。
今見過ごすことを私自身が許せない、みたいな感じで困ってる人に声をかけたりしてしまうのかもしれない。


ただ、その人に声をかける直前に思い浮かんだのは、これから待ち合わせで会う人のことで、その人が今同じ状況だったらこの人に声をかけるな、と思ったから話しかけることにした。周りにはたくさん人がいたし声をかけなくてもよかったけど、助けることにした。


あの人ならこうするだろう、と思うことで私は少し強い気持ちを持てる、というか、誰かに優しくできる。だから、そのことを感謝したい気持ちにもなった。


---

この前、『このゲームにはゴールがない』(古田徹也・著)という本を読んでいて、
他人が考えていることは分からなくて、そういうもので、そういう揺らぎの中で言葉を交わしていくしかない、ということについて改めて考えていた。

自分と同じ気持ちでいることを期待したり、なんで同じじゃないんだろう、と、少し前は悲しくなっていたような気がする。

そうではなくて、自分とは違う他人として、一人の人として、考えていることが自分と違うことも、思ってることは予想がつくものではないということも忘れないようにしようと思った。


話を聞いてもらうことを期待するだけではなくて私が話を聞くことをできるようになりたいです。
もらった手紙をたまに読み返したり、
今日は香水をつけようかなという日は、もらった香水をつけたりしてます。
いつも考えています、と言うと重いかもしれないけど、でも、どうしてるかなと思ったり、幸せを願ったりしてます。
また話聞くのを楽しみにしてるので、風邪引かないように気をつけてください。
(急な私信)

---

◯この前乗り過ごした電車で聞いてたプレイリスト

https://open.spotify.com/playlist/2rIMhXg2jnI2FSTXezXpuS?si=kvlvWTvwQ0yqNqJ0eS7QMg&pi=a-7A67ptReR8-M


◯写真は一年半前くらいに撮った写真、いつもは通らない道で見つけた水たまり、美しいと思った。