作業興奮に対する誤解について
よく「やる気」とか「モチベーション」とか検索すると,「作業興奮」という単語が頻出することが分かります.「ドイツの心理学者であるクレペリンが提唱した…」というお決まりの説明ですが,これに関して以下のような鋭い指摘を見つけました.
もし本当なら由々しき事態です.ちなみに僕のnoteを遡ると,ある記事で僕も「作業興奮」という言葉をしっかり使ってしまっています…!(2年ぐらい前だと思います)
なんだか気になってしまったので,濫用されている「作業興奮」という言葉について徹底的に文献をあさってみることにしました.結論を先に知りたい方は,「まとめ」までジャンプしてください.なお,僕は心理学や精神医学の専門家ではないため,この記事に重大な誤りがあればコメント等でご指摘いただけると幸いです.
1. まずはGoogle検索で古い資料を探す
まずは,通常のGoogle検索で「作業興奮」という言葉を用いたウェブサイトの中でなるべく古いものを探してみました.すると,どうやら大部分は,東大薬学部の池谷裕二先生の著書から用語を引用したものでした.その中でも一番古い文献は次の本です(初版は2005年).ただ,僕は当該本を購入して自分の目で事実確認をしておりません.あくまで「この本からの引用を確認した」ことに過ぎないことに注意いただければと思います.
さらに,池谷先生は作業興奮という用語を次の著書でも使用していると考えられます.おそらくこの本で作業興奮というワードが世間一般に広まったと考えられます.
2. 「作業興奮」に対応する外国語があるかチェック
作業興奮を英語に訳すとどうなるか分からなかったのですが,work excitement theoryという謎の単語が検索に引っかかりました.しかし,英語の文献は一切ヒットしません.その代わり,韓国語で書かれたウェブサイトが数件ヒットし,それらをgoogle翻訳にかけてみると「作業興奮」と同じような概念が解説されていました.うーん,分からない...外国語で定義されている可能性は低そうですね.
3. Google Scholarで"作業興奮"と検索し,日本語文献をチェック
3.1. 論文1
PDFを入手できた文献の中で,最古のものは1942年の論文でした[1].誰でも閲覧できます.戸川行男教授によるものです.
漢字の字体が今とは違っていて時代を感じますね….論文は,内田クレペリン検査と呼ばれる試験(論文では,演算加算法と表記されています)に対するパフォーマンスを,1万人の被験者について分析・分類・比較を行ったものです.
1万人の被験者の平均作業曲線が掲載されていますが,作業を開始して10分程度でパフォーマンスが一時的に増大します.さらに,休憩後には開始から約3分後程度でパフォーマンスが一時的に増大する区間があります.この作業曲線が一時的に増大する区間のことを,論文では「作業興奮」と呼んでいると思われる表記がp.17にあります.
しかし,この論文では誰によって「作業興奮」という言葉が定義されているのか分かりませんでした.さらに注意すべきは,ここで用いられている「作業興奮」とはモチベーション・やる気云々の話ではなく,あくまで演算加算のような単純作業におけるパフォーマンスについての話であるということです.
3.2. 論文2
そこで,別の文献にあたってみることにしました.その中で最も分かりやすかったのが,次の論文です[2].発行は1998年です.
1ページ目から,次を引用します.
冒頭で紹介したウェブサイトでも主張されていますが,この5つの因子の中にある「興奮」因子を指して,誰かが「作業興奮」という言葉を定義した可能性が考えられます.論文を読み進めると,次のような表記が見つかります.
文章では分かりづらいので,次の図を当該論文から引用します[2].上記は,下記の作業曲線の推移を説明したものです.開始10分後および休憩後3分後程度に現れる,一時的な作業量の上昇を「作業興奮」と呼んでいるようです.
さらに,「これらの内田の用語に従うと」とあることから,おそらく作業興奮という用語は,クレペリンの演算加算法を日本式にアレンジした内田勇三郎先生が定義したものと思われます.
内田勇三郎先生が1951年に出版した,『内田クレペリン精神検査法手引き』(日本・精神技術研究所)については,PDFで閲覧できる資料が見つかりませんでした.よって,事実確認はできませんが,内田先生が作業興奮を定義した可能性が高いです.
3.3. 論文3
さらにもう一つ文献をあたってみると,「作業興奮」についてかなり明確に説明された論文[3]がありました.1985年の論文です.
p.42にある『2-2 興奮』という章にある以下を引用します.
あった!まさにこれこそ,私たちが知りたかった情報です.「作業興奮とは,作業することが刺激になって内部に発生した活動動因とでもいえるもの」という趣旨が読み取れます.後半「戸川教授の論述に賛意を示したい」とあることから,最初に引用した論文の著者である戸川教授による「興奮因子」の説明があったのでしょう.さらに,「クレペリン派についてはその点にまで論及していない」とあることから,クレペリン自身は作業興奮の機序について言及していない可能性が高いです.
3.4. クレペリン自身はどこまで主張しているの?
なお,クレペリン自身が,1902年に提唱した作業曲線については,Wikipedia(ドイツ語)の資料があるようなので,DeepLなどで翻訳しながら読んでみると面白いと思います.
また,クレペリン自身が主張していることを詳しく調べるには,次の資料をあたると良さそうです.いずれにせよ100年以上前の古い研究であり,作業曲線そのものは信憑性と共に詳しく検討する必要があります.
まとめ
・「作業興奮」という言葉は,「やる気の上昇」の意味ではなく,当初は「単純作業における作業量(パフォーマンス)の一時的な上昇」の意味で用いられている.この現象を「作業興奮」と名付けたのは,内田勇三郎先生である可能性が高い.
・「やる気の上昇」に近い意味で,作業興奮という現象に説明をつけたのは,戸川教授かもしれない.だが,それはパフォーマンスの一時的な上昇に対して付けられた仮説的説明に過ぎないため,実験により直接的に実証された事実ではない.
・ドイツの精神科医(心理学者ではない)であるエミール・クレペリン自身は,作業興奮という単語を定義した可能性は低い.
・一般に作業興奮という単語を浸透させたのは,池谷裕二先生の著書(初版は2005年)である可能性が高い.もしかすると,ドーパミンや側坐核による作業興奮の説明は,池谷先生が補足した情報が,クレペリン自身が提唱したものとして独り歩きしてしまったものではないか?
参考文献
[1] 戸川行男. (1942). 内田クレペリン作業檢査法の紹介報告. 心理学研究, 17(1), 1-20.
[2] 野田勝子. (1998). 内田・クレペリン精神作業検査のいわゆる 「定型」 について--時代による変化について. 名古屋大學教育學部紀要 教育心理学科, (45), 37-44.
[3] 島津貞一. (1985). 内田・クレペリン精神検査の課題. 東海女子大学紀要, 5, 39-51.