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誰かが「あたりまえ」をあえて説くとき、その人のまわりで起こっていること

田口茂『現象学という思考』(筑摩書房, 2014年)の冒頭には、こんな一節があります。

"何かが本当に疑いようがないと思っており、それが周知のことだと確信しているとき、わざわざその確実さを強調するだろうか。たとえば、快晴の日に空が青く見え、他人にもそのように見えていることが、どんなに確かだと思われても、ふつうわれわれは、青空を指差しながら、「空は確かに青いのだ、これはまったく確かなことだ!」などと叫ぶことはしない。(中略)「確かさ」を懸命になって主張するとき、われわれは自分の確信することが他人にも共有されていないことを知っており、だからこそ「確かさ」を主張する意味を見出している。"

上の例に見るように、私たちは「自明なこと(あたりまえなこと)」をあえて口に出して主張することはありません。わざわざ言葉に出して主張されるということは、主張する人のまわりでそれが自明でないと考えられているということです。

「報道する価値がある」という性質を示すジャーナリズムの言葉に"newsworthy"というものがありますが、newsworthyな情報というのは、意外性の高い事実に他なりません。「本来は起こってはならない殺人事件が起こってしまった」「故障してはならないシステムが故障してしまった」などの、自明なことが自明ではなくなってしまった事態です。

「あたりまえ」のことが再び主張されるとき

一見すると「あたりまえ」のように思えることが、あえて声高に主張されるときがありますが、この時に何が起こっているのかを考えます。

例えば、「差別がいけないことである」という倫理観が「あたりまえ」とされている社会を考えます。このような社会において、「差別はいけない」とあえて主張されるとき、その周りでは一体何が起こっているのでしょうか。

私は、誰かが一見すると自明なことを主張しているとき、その人のまわりで「自明なこと」が脅かされている可能性を示唆している —と考えています。

逆に、私が「差別はいけないことだ」と日頃わざわざ主張しなくて済むのは、私が日常的にそうした恐怖に脅かされていないことを示唆しています。一方で、日本においてはマジョリティとしての属性を主に所有している私でも、アメリカにいけば「外国人」「アジア人」という異質な属性が前面に出てきます。その際に、もし私が差別の恐怖に怯えていれば、自分と接する人々の態度に対して敏感になってしまうことでしょう。そして万が一少しでも嫌なことがあれば、日本にいる時は「自明なこと」であった「差別はいけない」という倫理観を、表に引き出してくる可能性があるということです。

つまり、私にとって自明なことは、私を取りまく状況や文脈によって容易に変化してしまいます。私にとって自明なこと=差別されない、暴力を受けない、不当な扱いを受けない、 etc. は、状況によっていつでも脅かされる可能性のあるものだということです。恩恵が自明なものであるとき、その恩恵は空気のように不可視でありますが、恩恵がはじめて意識されるのは、空気が欠乏したときです。宇宙船で空気漏れを経験した人が、「空気は、確かに存在すべきなのだ」と自明なことを主張することは何らおかしなことではありません。

だから、誰かが私にとって自明なことを主張しているように思えるときも、その人を取り巻いている状況や文脈に対して想像力を発揮できることが重要なのかもしれないです。私にとってそれが至極「あたりまえ」のことで、綺麗事や遠い世界の理想論に聞こえることがあるのは、私のまわりでは「自明なこと」が自明のまま、ちゃんと守られているからだ、ということがあり得る。そして、私がこれをnoteにわざわざ綴っているのは、この可能性が私にとって今まで自明でなかったことも示唆しています。人によっては、当たり前のことだと感じるでしょう。『この割れ切った世界の片隅で』があれだけの注目を集めたのも、「あたりまえ」が人によって違うという「あたりまえ」が脅かされてしまった瞬間の描写が、多くの人の共感を集めたからだと考えられます。

誰かが自明な倫理観をあえて主張しなければいけないとき、その人は現に日常的にそのような恐怖や痛みを味わっているかもしれません。あるいは、「わたしは差別されるような存在である」といった自己否定的な感情を内在化してしまっていて、その内なる声に必死に抗っているという可能性もあります。何かに対して恐怖があると、その何かをキャッチしようとするセンサーが敏感になってしまい、自分にとってネガティブな事象を選択的にサンプリングしてしまうことがあるためです。

何か実現したいことがあるが、それが難しいのではないかという心の揺らぎがあるときこそ、それに抗おうと肯定的な暗示を自分にかけようとするものです。「自分は幸福だ」という肯定的な暗示を自分自身にかけるのは、幸福な状態を維持することの難しさ(これこそ"有り難み"と言えますが)を実感しているからに他なりません。

まとめ

人は自明なことをわざわざ主張しない。主張する必要があることは、その人のまわりで自明でないことである。あるいは、その人にとっては意外性の高い事実であったことを示す。ゆえに、誰かが一見すると「自明なこと」を主張しているとき、それはその人のまわりや心の中で「自明なこと」が脅かされている可能性を示唆する。

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