書くということ
私はなぜ書くのだろう?
ブログを始めたのは何年前だろう。FBやって、去年はツイッターを半年ほどやった。中断はあったけれど、5年くらいはやっているのかな?
たびたびアカウントを換えている。ブログは今回が3回目か4回目。一言で言えばイヤになったから。私はそういうつもりで書いていないのに、それは○○主義だ!とか、××論者だ!とか、そういう人だとは思わなかったとか、色々とご意見をいただいた。商売でもなんでもないのにね。その煩わしさが一つ。そこで知り合った他の人たちとも切れちゃう・・・という迷いは、初回はあった。でも、ご縁があれば、また出会うだろうと思って、思い切ってアカウントを消した。2回目以降は、何の躊躇もしなかったけれど。
それから、そう言われる原因になる駄作の数々を片付けましょ、というのもあった。当てつけでもなんでもなく、自分が書いたものは排泄物だと思っているから、不快にさせたなら、ごめんなさい、消しますって。けっこう調べて書いたものもあったけれど、何の未練もなかった。芸術家でもないけれど、生み出すという意味では、生意気にも同じだと思っている。
絵は結果です。排せつ物みたいなものです。なぜこの絵かといわれても、本人だって分からないんです。
(群れるな・慣れるな・頼るな 好奇心を生涯保つ術日本画家 堀文子氏より)
https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2601H_W2A121C1000000?channel=DF130120166049&page=2
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『露』 金子みすゞ
誰にもいわずにおきましょう
朝のお庭のすみっこで、
花がほろりと泣いたこと。
もしも噂がひろがって
蜂のお耳にはいったら、...
わるいことでもしたように
蜜をかえしに行くでしょう。
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軽やかなネタが書けなくて、どうしても重たいネタになってしまい、誰も読みたくない駄文しか書けない。どこかで素性がバレるのも心配。書くのを止めたいと何度も思った。でも、金子みすずが詩作を止められて生きられなかったように、私も止められたら、生きているのが難しいようにも感じている。特に生んだ子が絡むことだから、みすずと共通するところがあるかもしれない。
ネット上では、それほど特異な考え方だとは思わないが(まあ、そういう人の記事ばっかり読んでいるから)、リアル界ではかなり異質。リアル界で、できるだけ波風を立たせないためにも、爆発しそうな私の異質部分をどこかで処理しなければいけない。
頭の中でもやっとしていることを、粘土板の上に並べて、再構成して書いているイメージがある。誰も読まないであろう記事であっても、読まれると思えば、それなりに分かるように構成して書こうとする。それは自分への説明にもなり、あらためて読むという反芻によって、客観的に観察できる。結果として、思考の回転が速くなる。それが面白くて、止められない。中毒だとも思う。
特にこの騒ぎになって、心穏やかではなく、本も読めなくなってしまったから、どうしてもアウトプットに回ってしまっているところはある。こうやって、書き殴っているせいか、ようやく落ち着いてきたように思う。渦中から抜け出して、俯瞰して見られるようになってきたから。
15年前、どん底に落っこちた。あれが最悪だと思っていたけれど、状況としては今回のほうがひどい。あの時もそうだけれど、毎日がジェットコースターに乗っているようなもの。あれも医療がらみだった。医療は私にとって疫病神でしかない。お願いだから、私の大事な子どもたちに取り憑かないでおくれ!
でもね、今回はあのときより立て直しは早い。書くという武器を手に入れ、使いこなせるようになったことが、大きな理由だと思う。
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