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情けない人

思い返せば15年前のどん底のとき、罪悪感がひどすぎて、生きていたくなかった。今回もそうだった。自分の力不足が招いた結果だったと。


この茶番に関することではないけれど、私には「それはちょっと失礼(ひどい)じゃない?」と思ったことが最近あった。

私が「ひどい!」と思うことは、大したことではないとされることがほとんどで、だいたい私が隠れて泣いて終わる。それは子どものときからだ。

私が幼稚園のころ、社宅に住んでいた。いじめられていたことを親は知っていた。つい数年前、知っていて何もしなかったことを、悪びれることもなく私に話した。弟が小さかったことと、私をいじめた子たちの父親が東大卒だか京大卒だかで、その母親も当時は珍しい大卒だったからだそうだ。「しょうがなかった」と。それが雛形だったのか。結婚してからもそうだった。ただ、夫は15年前に気づいたようで、多少はその構図を理解したようだけれど。

今回は、私よりも夫のほうが当事者だったこともあり、また娘も私以上に「それはちょっと失礼(ひどい)じゃない?」と思ったようだ。


夫と娘の憤りを聞いているうちに、ふと私の心の中で反転が起きた。厳密に言うと、「反転」ではない。大阿闍梨の塩沼亮潤氏の講演動画を見てから、罪悪感の縛りからは解放されていたから。


どう反転したかと言えば、「情けない」と思った。


私が拾うべきものではないと。


「情けない」と言っても、今回のことはかなり軽症なほうで、それよりも「情けない」のはこういう人たちだ。

甘いものを何十年も食べ続けるなどして、慢性疾患になり、”病名”をつけてもらい、忠告すれば「専門家でもないくせに!」と言い、病気なんだから優しくしろと言う。

問題なのは、こういった「情けない人」を受け入れられるほど、私の器は大きくないということだ。

なんとか、わかり合える道を探してきたけれど、私には無理だ。それこそ、「やる気のない人間に火をつけるのは、水揚げの雑巾にマッチ一本で火をつけるようなもの」だから。

となると、こういう人たちとつきあうには、受け入れられるだけの器の大きさが必要だということになる。


この二年間、こういう人たちから逃げ回ってきた

でも、それでいいのだろうか。私の器が大きくなれば、こういう人たちからの害毒を受けることなく、受け入れることができる。

では、「器が大きい」というのは、具体的にはどういうことなのだろう。

① 「情けない」に取り合わない。つまり、感情を動かさない。
② 相対するときに、相手が「情けない」を発動しないように受け答えを工夫をする。
③ できれば、その「情けなさ」を自覚してもらう

ということかな。


結局、私が精神的に軟弱だから、振り回されるということだ。

じゃあ、鍛えればいい。


お~、歩くことも修行になるって。塩沼亮潤氏がそういう本を書かれているんだ。

毎日、1時間ほど歩いているくらいじゃ、全然足りない。毎日は無理でも、時々もっと負荷のあるのをやろう。そうじゃないと、軟弱な私は「情けない人」には太刀打ちできないから。


今の時代、「情けない人」があふれ返っているから、こういう状況になっているように思う。最終的に被害を被るのは、未来の世代。そう思うと、本当に「情けない」


周囲にいる人生の先輩たちを色々と反面教師にさせてもらってきた。彼らは死ぬまでそうだろう。GHQの被害者と言えばそうだけれど。「だから?」と思う。

きっと、「しょうがなかった」と言うのだろうな。この言葉ほど嫌いな言葉はない。次世代に対する冒涜だからね。



タイトル画像:独り言 31 (器の大きい人は、どんな言葉でも一度は受け入れる) | かっちんブログ 「堅忍不抜」 (ameblo.jp)

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