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敗北のそのあと

最近、枠関係もこの騒ぎも食傷気味。今が正念場だぞ!!と叱られそうだけれど。子どもに打つなんてとんでもないし、なんとかパスポートも絶対に反対。

でも、私個人の正念場は終わった。敗北だ。

なんとかパスポートについては、私個人は、たとえ生活が止められても打たない覚悟はできている。

子どもへ打つ打たないについては、関わる元気がない。

昨年、まだそれほど強制力のなかったときに、新しいもの好きの親が、小さなわが子に顔面オムツをさせているのを見た。

顔面オムツを外したいから私は打つが、子どもには打たせたくないという親は多いとのこと。

手弁当で必死で訴えている人たちを「うるさい」と思っている人たちは、わが子のことであっても、「どうして私たちががんばらないといけないの?」と思っているのかもしれない。

憲法12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」

お店やネットにならぶ商品を見て、センスのよい一品を選ぶのとはワケが違う。

嫁、姑の関係であれば、私は姑だ。かわいい孫であっても、嫁の意見を優先しなければいけない。何よりも"当事者”の嫁が、孫のことに口を出すな!と主張するだろう。その摩擦を上回るほどのパワーは、今の私にはない。

その一方で、反対派は、打った人には冷たい。シェディングを恐れてか、一生、サランラップで全身ぐるぐる巻きにしておけと言う人もいた。「枠を打つな!」と強く主張したいからそう言ったのだろうとは思うけれど。

結局、宙ぶらりん。

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2回も打ってしまった子どもを心底心配しても、子どもも周囲も私の言うことは大げさだとか、インボー論にはまっていると思っている。泣くにしても、隠れて泣かなければいけない。「人の気持ちなんて、誰にも理解できないから」と分かったようなことを言われるだけ。

戦中の母と同じだと思う。

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辛すぎて、何もできないという状態は、これで3回目だ。状況としては今が一番悪いが、前回よりもはるかに動けている。3回とも共通するのは、周囲は全然大したことないと思っていて、泣いている私をしょうがないと見ていることだ。泣くなら隠れて泣こうと思うのだけれど、不意に傷口に触れられてしまうと、涙が止まらなかった。今回はそのコントロールはわりとできている。


  『露』 金子みすゞ

  誰にもいわずにおきましょう

  朝のお庭のすみっこで、
  花がほろりと泣いたこと。

  もしも噂がひろがって
  蜂のお耳にはいったら、...

  わるいことでもしたように
  蜜をかえしに行くでしょう。

幼い娘が自分の手元から連れて行かれることになったときの詩だったと思う。本が見つからなくて、確認ができないのだけれど。周囲の言う「合理的判断」、「正当な理由」で引き裂かれる。母親の言い分は、勝手だとか偏っていると切り捨てられる。人知れず泣くしかない。

そういうことが分かる人は、あまりいないのかもしれない。イマドキの人は、「合理的判断」や「正当な理由」側につくのだろう。そんなこと(?)で泣くなんて、スマートじゃないからね。

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本を読む気になれないのだけれど、裁縫をしながら、歴史関係の動画をラジオがわりに聞いている。たぶん、大きな歴史の中で、私の思いなど小さな小さな砂粒であると思いたいのと、歴史上の人々の人間臭さを聞きたいのだと思う。

イマドキの人の、「人の気持ちなんて、誰も理解できないから」とか、「個人が決めること」とか、「意見の尊重」だとか、分かった風な言葉はもうたくさん。

好きにすればいい。

そんなことを言うと、歳を取ったねと言われる。自分でも老化かなと思う。

「愚者にとって老年は冬である。賢者にとって老年は春である」(ユダヤの格言)

私個人は、老人になって、大事にしてほしいなんて、これっぽちも思わない。130歳まで生きても、退屈せずに生きられる自信がある。それでいて、明日死んでもいいと思っている幸せ者だ。

ただ、家族をあきらめることが難しい。

私以外の家族は、現行のシステム(お金中心)の社会の中で上手く泳ごうとしている。私はとことん、このシステムとは相性が悪い。

ここにきて、「母の愛」とやらも、現行システムとは相性が悪いことに気づいた。

「良妻賢母ハ軍国主義ニ繋ガリマス」と言っていたあのフェミニストに完敗だ。日本のフェミは、あっち系だから。ドンが、「みんなで平等に貧しくなろう!」って去年の1月だったかに、新聞に寄稿していた。それって、もろに○産主義。

○産主義が好きな人はそれでいいけれど、イマドキを追いかけているだけと思っていたら、知らないうちに○産主義に連れていかれる人も多いように思う。ウチの子どもたちも、そうだと思う。

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私にできることって何だろう?

祈ること以外に無いのかもしれない。

祈りが病人の回復に対して効果的かどうかについて、アメリカではいくつかの研究が行われています。祈りについて多くの著作のあるラリー・ドッシーが、医学専門誌に次のような実験例を発表しています。
 カリフォルニア大学で行われた実験では、心臓病の患者393人を、192人と201人の2つのグループに分けました。そして、192人のグループにだけ毎日、他の人々から祈りを送ってもらいました。
 すると、祈りを送ってもらったグループでは9人の病状が悪化したのに対して、送ってもらわなかったグループでは48人も悪化したそうです。ただし、この実験結果が本当に科学的に妥当であるかどうかは、認める人もいれば認めない人もいるそうです。 https://diamond.jp/articles/-/98488

この実験結果は、本当かなとは思うものの、○産主義という思想には有効な気がする。もう、○産主義は何十年も前から忍び込んでいて、あちこちに根を張っている。正攻法で戦ったところで無理だと思う。

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林千勝先生のこの図に現れないことをするのが、一番の抵抗だと思う。

母親の愛、祈る、神、お金が絡まないコミュニティー、手仕事、無畏、謙虚・・・


それはさておき、私は、アラサーの息子が、良い判断をすることを、日々祈っている。

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