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夢の終わり

去年やっていたことと今年は違うことをしている。私がそんな「食い散らかし女王」であることは、前回の記事でも書いたとおり。一貫性のない私だけれど、ずっと持っていた夢があった。

「賢くなりたい!」

子どものころ、とにかく、物覚えは悪いし、不器用だし、運動もダメだし、人間関係も上手に結べない、ダメダメダメっ子だった。「それは私がバカだからだ。だから賢くなりたい!」と子ども心に思った。今思えば、賢さと運動や不器用さはあまり関係がないと思うし、我が子を見ていたら、私はそれなりに人間関係を上手くこなしていたのかなとも思う。

高校は、市内で一番の進学校に行った。隣のおばちゃんに、「え~!”あの”ふみちゃんが○○高校に入ったの?」と、えらく驚かれた。自他ともに認めるダメダメダメだったのに、急に周囲の評価が変わったから、私のほうがびっくりした。

もう一つ驚いたのが、高校にはヘンな人が一定数いたことだ。一度教科書を読んだだけで内容を理解してしまう人、世界史の教科書を一度音読しただけで高得点を取ってしまう人、ヘラヘラ遊んでばかりいて、全く勉強なんてするヒマがないように見える不良が、常に10番内・・・。

彼らに追いつこうとは思わないけれど、賢いとされる学校に行ったのに、これじゃあ、あまりにもダメじゃないか。周囲の人は私より賢い。私は人の倍以上勉強して、やっと人並みなんだ。そのわりに、ガンガン努力するわけでもないから、バカはおバカなまんまだと思っていた。

それがおばさんになっても続いていた。ついこの間まで。

いや、そんなこともないかもしれない?と思い始めたのが、茶番の始まる前。


私には、「周囲の人は私より賢い」という前提があるから、辻褄の合う話であれば、必ず通じると思っていた。たとえ、賛成はしてくれなくても少なくとも冷静なやりとりができると思っていた。

ところが、何年か前から、「私をバカにしているのか!」と叱られたり、おもむろに論点をずらされたり、権威をちらつかせて「正しくない」と叱責されたり、別に押しつけているつもりもないのに、それは押しつけだとキレられたり、説明の仕方が悪いと叱られたり。

相手に負の感情を起こさせることが何度かあった。

「意見を言ってほしい」と言うから言った。「意見を言う場」だったから言った。「意見を言っていい関係」だと信じていたから言った。それよりも「”空気”読めよ!」というほうが優先だったのだろう。この”空気”とは何だったのだろう?



そうこうしているうちに、この茶番がやってきた。

何度も書いてきたけれど、

この茶番は様々なことを明らかにする。


私より賢いと思っていた人たちが、口に布を当て、液体を打つ。茶番を茶番だといまだに気づかない。私が布をしていないと注意し、私が液体を打っていない、打つつもりもないことを知ると、「お気の毒に」と心から同情する。


「賢さ」の尺度は人によって、また、時と場合によって違ってくる。中学、高校あたりでは、成績が尺度。大学では、難解で意味不明な話を理解できる同級生がスゴイと思った。会社に入れば、物覚えがいいとか、手際がいいとか。

出産で仕事を辞めてからは、資格がないからダメなんだと思い、隙間時間をみつけて、簿記をやってみたり英語をやってみたりした。色々あって、結局、仕事に出そびれてしまった。これも、私がバカだからだと思った。

私はバカなんだから、人一倍がんばらなきゃ!

実際にがんばったかどうかは別として、そう思い続けた。


私は何に憧れていたのだろうか?


賢いだとか、賢くないということではなく、洗脳されているか、されていないかという話かもしれない。賢くても洗脳されるのか?・・・


いや、もう、どうでもいい。

追い求めてきた夢はもう終わりにしよう。



これから多くの子供が死ぬことになる。マスク茶番を笑っていられるうちはまだ平和だった。今後起こるであろう多くの悲報を、僕らはどんな顔をして聞くだろうか。
いい加減、目を覚ましませんか? (「いつになれば気付きますか?」より)

残念だけれど、今気づいていない人は永遠に気づかないと思う。賢いとされる人たちもそうだろう。

ヒロシマがあって、フクシマがあって、子宮頸がん○クチンと呼ばれるHPV○クチンがあって(また再開するらしい)、そして今回の液体。その他にも水俣病などの公害病、サリドマイド、薬害エイズ・・・。

それらと今の状況が結びつくことはない。

それは歴史上のことで、私たちは違うと。


いったいどのくらいの子どもたちが苦しみ、死ぬのか?口に布を当て、液体を打っている場合じゃないよ。親や親に勧めた人たちが、あとで「しょうがなかった」と自己弁護するのか。


この国の宝が失われていく


この国は滅びるだろう。100年、それ以上かけて仕込まれてきたことだから、今生きている人だけの責任ではないけれど。


日本民族が生き残るために気がついた人たちが助かる道を探すべき段階だと思う。皆で助かろうという段階はもう終わった。


ウチの子たちは大きくなったし、孫もまだいない。国の宝は気になるけれど、私の仕事の対象は、やはり家族だ。

私の家族には打った人と、打っていないが相変わらずお花畑の人がいる。家族の誰かが危機感を持ったら、自分たちが助かる道を探すことに協力しようと思う。私は若くもないから、それまではこっちに居続ける。たとえ間に合わなくても、本人たちが気づかない限り、私が太鼓を叩いていてもしょうがないから。家族がどの段階にいようがフォローするのが私の務めだと思っている。用無しとなれば、不食の人になって、そのうち孤独死することに決めている(笑)

そのために今、何をするか。

本当は自家菜園などを始めて、少しでも食糧危機に備える技を身につけたいところ。でも、周囲の人には危機感がなくて、それは求められていないこと。

私にとって、今はそれをする時じゃないのだろう。でも、もし、私が生み出す「文章」が武器になるならば、それを磨くチャンスは今しかないと思う。

私には、キング牧師の”I Have a Dream”のようなはない。それは、別の人の仕事だ。ちっぽけな庶民の私は、ただ、与えられた仕事を誠実にこなしていくことだ。

私の夢は終わった。


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