格好良くて、イタくて、ダサくて。

ただ漠然とした不安を前にしたときに足が竦んでしまう性分である。
そういうわけで、10代のほとんどにおいて私の足は竦みっぱなしだった。

輝いて見える人に格好良いという感情を抱いた。それでいて自分がそれになり切ることはできないとどこかで決め付けていたので、「格好が良いけど、別に目指そうとは思わないかな」という絶妙な嫌味を幾度も散らかしていた。
弱さや寂しさを人に悟られたくなかったのだろう。思春期特有のそれである。

大学生になって1年が経った頃からようやく自分の足で立てる自信がついた。

それから半年くらいして、「お前の生き方は格好が良すぎる」と言われた。
その時からである。格好良いという言葉がどこかで引っかかり始めたのは。



格好良く生きられるようになったと思えば、自信に満ち溢れて格好良い自分が急にダサく見えた。

良く見せようとして、格好をつけているような気がした。

「だっさ…」

心の声が時空の向こうから漏れ出しているのを私は聞き逃していない。

そんな私は多分、時空の向こうの彼女にとって見れば「イタい系」なのかもしれない。

「イタくても結構。」

そう断言できる強さもどこかで持ち合わせたのが不幸中の幸いである。

他人からの評価は正直気になるものである。

昔書いた言葉を借りれば、イタい系とは「似非一流」によく似ている。
自分のことはちゃっかり棚に上げておきながら「人の評価を気にするなんて〜」と言っては、ついたマークの数にときめいたり喜んだりする。

仮に指摘されれば「いやこれは〜」と(時に逆上しつつ)欠陥だらけの弁明に命を燃やすか、「そうですね!」と5文字とそのおまけにすべてを賭け、嵐が過ぎるのを願うなどしている。

私にはそれが、どうにもイタい。

けれど、何年も「孤独」に足を竦ませながらなんとか生きてきた昔の自分をこれ以上泣かせたくなくて、「格好良く生きなくてもよかったじゃん」と簡単に言うことも憚られる(自分に対してはどうにも言い方がキツいので)。

一見ふらっとしているように見えるが蓋を開けて見れば芯のある人に憧れている。

時々、本当に時々のことだが、私は自分をコンクリートを塗り固めたような人間だと思ってしまう。
一色で、どこを切り取っても同じで、堅くて、そんなに個性がない。

見るからに芯のある人も格好良いけれど、そう称された立場から見れば、隠された芯で生きている人の方がよほど格好良いのだと分かってしまった。芯があれば偉いだとか勘違いして驕るのは惨めなものである。

なんだか知りすぎてしまったような気がして、でもそれもまた気のせいな気がして、それより後戻りを選択する余地などなくて、こんなに書いてしまった。




格好良いのかイタいのかダサいのかなど正直どうでも良い。
一過性の主観的なものにすぎないと言えばそれまでなのだから。


けれどその些細な引っ掛かりを掘り下げては漠然と不安に浸り、半分溺れながらもがき続けてここまできたのだ。

もうこれは自分なりの生きる術であり、これ以上「格好良い」術も「ダサい」術も知らない。