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すくわれた人間の末路

5月の初めから、いやずっと前から、このエッセイを書くかどうか迷ったり迷わなかったりを繰り返していた。

つまり切り捨てられない思いがあるということである。それは後ろめたさかもしれない。謝罪かもしれない。怒りかもしれない。嘆きかもしれない。

せっかくの機会をいただいたこともあり、自己解決しない根底を、「私らしいが、私らしくない」この迷いを、この場所に残すのもたまには悪くないと思った。

ここで書きたいのは大学生になってからのことなのだが、その前にまずは昔の自分が「とんでもない捻くれ者」だったことに少し触れておく。

中高で色々とこじらせた。特に高校の部活動で、自分でこじらせたものを今度は他者に抉られた。詳しいことはもうあまり記憶にないけれど、涙も感情もなくなったときもあったし、逆に明らかに様子がおかしいと疑われるほどの弱さを抱えたときもあった。

しまいには学校に数分遅刻しただけで全て嫌になって、1人で1時間近く泣いた。

なんのために、なんのために。
死に切れないなら生きろよ、生きられる自信がないなら死ねよ。

そんな声が聞こえた。
その言葉の主はもちろん自分自身だ。

教室に入ろうと決めた時にはまだ、泣いた痕跡は消えなかった。弱い姿を誰かに見せることを絶対に許すことができず、何の罪もないクラスメイトに荒い振る舞いで威嚇した。
自分に優しさを差し伸べてくれる人が怖かった。裏切られるのが怖かった。最初から敵だと思った方がよほど安心した。

誰の言うことも素直に受け取れなくなって、やがて誰の人柄も信じられなくなって、そんな自分への嫌悪は募るばかりで、やっと得たきっかけから立ち上がろうと思えば運悪く道を断たれ、誰かに嘲笑された。

何に一生懸命取り組もうとしても、心の中では「どうせうまくいかないんだろう」という気持ちが絶え間なく自身を支配する。

(2020.04.29「挫折癖の克服」)

そうやって大仰に書けばそれ相応になるだけだが。

そんな性格のまま私は大学生になった。何か事態が好転することもなく、「なんのために」の呪縛で頭を締め付けられながら大学1年生の期間を過ごした。

私は一生こんなままなんだろうか、これでいいんだろうか、いや変われないのかもしれない、これでいいのかもしれないし、これがいいのかもしれないし、みんなそうなのかもしれない。

でもどうにも、周りの人間の屈託のない笑顔が羨ましい。
楽しそう。いいなあ。あの人もあの子も、生き生きして。

羨ましいけれど、私は影から指を咥えて見ているしかない。生きられないならとか死に切れないならとか、そんなことを考えるばかりで自分を好きになれないなら、到底無理だ。

挫折癖の3文字で全て説明がつく。



そんな私の声を聞いてくれる大人に偶然会うことができて、私は救われた。
彼は私を諭してくれた。

ちょうど1年前のこの日、この瞬間、私は。

この上ない心の軽さを疑うだけの「捻くれ」もどこかに置いてきたのだ。

ただ残ったものは「悔しさ」だった。
長年の悩みがこうも簡単に晴れるということに悔しさがあった。それは確実に、その言葉に心を打たれた後の自分に対する抵抗だった。
誰にも分かられたくないという懇願でもあったのかもしれない。

でもそれも、泣きつかれて眠ったその夜のうちに霧散した。
まるで魔女にかけられた魔法が解けたかのように、翌朝の私の視線ははっきりと上向き修正をなされたのを今でも鮮明に覚えている。

ここまでは、昔書いたことの繰り返しだ。
高校のことも、大学に入ってから救われた話も、拙作ながら全部マガジンに収めた。これらをもう一度書き直す価値はあまり感じられなかった。綺麗にしたところで自己満足で終わると思った。

今日は、そこから、の話。

私を救ってくれたその大人は、あまりにも価値観が似ていて、美しいと思うものを同じくし、面倒くさがる様子を見せることもなく熱心に話を聞いてくれた。
それでいて人の心の温かさと心強い言葉を贈ってくれたものだから、私は彼のことを、異性として見る次元を秒単位で超えて、人間として心から愛していた。


こんな大人になりたいと思った。この人に認めてもらえたら素直に喜べると思えるような存在ができた。
分かり合える人がいることが、一人の人間として認めてもらえることが、ただ嬉しかった。

近くにいることで、自分を成長させることができた。
冗談か否か、彼もまたそう言った。


救ってくれた大人に慕情を覚えた。
たったそれだけ。そう、たったそれだけのことだ。
好きという気持ちに近い、でも違うような何か。今でもよく分からない。


「大学生だから」それには分類されないのかもしれないが、私の気性から言えばこれは紛れもない禁断である。


人として好きすぎた。
自分のアイデンティティの中に取り込みでもしてしまったのだろうか、空白に耐えられなくなった。

初めて、人間同士の心のつながりというものを知ったような気がした。
それだけで私は幸せだったはずだった。

昨年の今時期は、本当に幸せだった。
知らなくて良いことも、たくさんあった。
それらを知らないうちが、幸せだった。

だから、私は彼が振り返ったとき、その目をしていたのを見て怖くなった。

その瞬間に、私はこれが恋ではないということを悟った。ただ慕わしいだけで、本当に憧れるだけで、もしその大人が女性だった世界に生まれていたとしても、私のアイデンティティが同じであって、かつ同じだけの関係と場所で出会ったなら、その大人を同じだけ慕った自信が今でもある。

そこで逃げればいいものを、私は逃げられなくて。
はっきりと伝えればいい「怖さ」を、私は伝えられなくて。

そこには慕情があり、それだけの迷宮から救ってくれた恩があるからであり。
何より理想を理想のままで保っていたいという、カギカッコつきの「優しさ」があるからであり、そして、NOを突きつけるだけの勇気がないからであった。

あれほどつらかった日々から抜け出させてくれた人を疑うことは、一度認めた自分の過去と今、そして将来に否の印をつけることだと思った。

でもただそこに確実にあるのは、
人としての尊敬と、人としての懐疑。

本来相反するものをこうも兼ね備えているのは正直心苦しい。

(2019.12.08「両価感情」)
彼が自分に好意を寄せていると知った。

(中略)

意外かもしれないが、それを知った時の私の本音は「ショック」だった。

好きだった。
「いつまでも頼りたい」なんて、依存のようなものだ。

それなのに「ショック」だった。

(2019.12.16「人として、って言うけれど、苦しいんだよ。」)

ただ禁断と割り切れたならどれほど楽だったのだろうか。そんな後悔とも空想とも似つかぬ考え事にはもう飽きてしまった。

彼は確かに私を成長させてくれた。
でも、何かが違う。

その違和感の正体は、私自身が、女性として見られることに、そしてかつ、その見る眼差しが策略高いと見えたことにあった。



愛するふりを装い、恋されることに。
その「ふり」に「あの子」は気付いていないと信じ込んでやまない様子に。
この社会的関係の中でその対象として見られることに。
言葉に裏をもたせてしまうことに。
直感的な危険を感じさせる態度に。
結局価値観を押し付けあってしまう関係に。




所詮、人間、そんなものか。

そんな諦めを感じてしまった。



一度得たはずの正常を、また失ってしまった。
「人として」と口癖のように語りかけられたおかげで、それとこれを割り切れなくなった。



そんなことは彼はしない。私の誤解かもしれない。
そう信じたかった。でも、いくらそう思ったって過去は変わらない。

どれだけ願われても。どれだけ過去が美しくても。どれだけ一緒に見た景色が忘れられなくても。こんな風に律儀にぴったり1年後にアクションを起こすような人間性が変わらないなら、信じきれていない証拠だ。


私が得たはずの正常はまた理想だったみたいだ。
最初からそう言っていたのに、そうじゃないよ、思い込むのはよくないよ、もっと楽でいいんだよと言われて信じた矢先の墜落事故。
それ見たことかと責める私こそいないが、痛みは和らがない。

もしそうだとしたら。彼に足を掬われたのが真実ならば。

あれらはすべて嘘なのか?


また私は、世界に取り残されたような孤独に気がつかされた。

元「とんでもない捻くれ者」の私のもとに、その精神が蘇ってくるようだった。先ほどわざわざ集約したほどのそれを、その過去を、またあの捉え方で見ていろと?
また全員を敵とみなすところからやり直しか?あれだけ笑顔にさせたいだなんだと言っていたくせに、まさかそれを妨げる張本人になるつもりか?
もう、私には誰もいないではないか。



私を貶めて何が楽しい?

私をSpecificなものとして認識していると言うなら、あなたにとってのGeneralに戻してくれ。もともと属していたはずの、その他大勢、未知の大勢に。
もしそうであるなら、私は自分の世界でも堂々とは生きられないのだから。

私は自分の世界でだけ、堂々と生きていたい。誰かの世界に踏み入ることはあっても、私はそこで主役になって踊る権利もないし、踊りたくもない。
だからあなたにもそのポリシーを守ってほしい。私の体温を求めるなら、そのくらい要求したっていいだろう。
それさえ言い出せないくらいに踏みにじったことへの後ろめたさは、お得意の気づかぬふりでやり過ごすつもりか?

自分を駆り立てるような問いかけは、やがて恨みでももつような勢いの武器となり、外へ向いていく。
そしてふと我に返り、内向きへと方向を変え、勢いよく進んでいく。正直、痛い。

私は、自分が愛した人に自分の生き方を「窮屈」と形容されたことがある。

確かに彼からすれば、私の生き方は窮屈に見えたかもしれない。
あらゆるリスクを避け、一歩を踏み出すことを躊躇し、自分の気持ちに目をつぶることを当たり前のことのようにしてきた。自分はそういう人間だと言い張れば誰もそれを疑わなかった。

それは、彼を本当に大切にしたかったからという名目のもと、自分の身を守りたかったからだ。


彼に比べればいつまでも子どもだろうが、私はもう立派な成人なのだ。
自分の責任の及べる範囲など知れている。

(中略)

自分の人生を大きく変えたほど私に真摯に向き合ってくれたからこそだろう。

そんな口調で言われることは私にとっての屈辱でもあったのかもしれない。
彼に私の人生の楽しさなど決めてほしくはなかった。

(中略)

一人の女性としての生き方を奪われる気がした。
それを必死で守った結果、自分の身に残るのが「窮屈な人生」だなんて、すごく切なかった。

一番の理解者だった人にいとも簡単にそう言われてしまうのがつらかった。

(2020.04.07「私の生き方は窮屈か?」)


大人ってなんなんだろう。私は大人なんだろうか。
人間ってなんなんだろう。私は人間なんだろうか。

愛って、恋って、尊敬って、なんなんだろう。違いはどこにあるんだろう。世間一般の定義やその可能性は調べればいくらでも触れられるので、彼には彼なりの定義を教えてほしい。どうせ、っていう言葉が続いてしまうのが悔しいけれど。

これ以上何を信じられるか?
自分の目も他人の言葉も信じられないで、何が残る?

あの日憧れ、同時に諦めかけた誰かの笑顔は、無垢な笑顔は、すべて幻想で、私には手に入らないのだろうか。
彼の言ったことはすべて歪んでいたのだろうか。いや、あれだけなのだろうか。それとも、私の方が歪んでいるのだろうか。
そもそも歪むってなんなんだろうか。誰がいつどのように曲げられるか?全部自分次第って言葉で方が付くのだろうか。それは、本当に?

みんな感じ方は違うはずなのに、どうして一人でここまで問い詰めなくてはいけないのだろうか。考えすぎだと分かっている。でも一度溢れた涙が止まらないのと一緒で、問いは延々と続く。



あの日からずっと分からないままだ。
分からないままなんだよ。
いつすべてがひっくり返るのかも分からないところで、自分の気持ちの持ち方ひとつで全部が終わるところで、私は一体、なんのために—————。



ほらまた、なんのためにって。


自己解決しない根底からうまれるものは無限だ。問いかけの過程で私は人格を変えていった。

今はもう、どうしても彼の言動が受け入れられないなら答えは一つだというところで割り切れて比較的安定している。
こんな世の中だし、依存もしていない。

元「とんでもない捻くれ者」の血が先ほどのように何度も騒いだが、全部自分で得たまでだと言い張れば案外そのようになった。
与えてもらったのはあくまでも機会であり、中身そのものではないと。


そこに残されたのは、手向けられた愛想である。


一度も異性として見なかったといえばそれは嘘だ。私だってその曖昧な世界で生きている。確かに好きだった。恋をしたかもしれない。そうでもなければ、私はこの1年間の世界の見え方を知らないまま死んでいったに違いない。

同じ傘の下で感じたぬくもり。
あの瞬間を拒まなかったのは事実だ。
残念ながら、あの瞬間さえも、私と彼は違うものを求めてすれ違っていたようだけれど。


出会った冬も、動き始めた春も、夏の真っ青な空も、真夏の夜も、彷徨ったふりをして佇んでいたあの淡い秋も、もう遠い。
その後訪れた、自分の依存体質に気が付いた冬も、静かな春も、あまりにも遠すぎる。

そしてまた、初夏がやって来た。

きっと来年は、もう何も書かないだろう。
根拠はない。でも、多分もう書かない、こんな思いは自分の頭の中で留めておくくらいがちょうどいい。
こんな記念日は早く忘れた方が自分の身のためかもしれない。


これ以上語っても、出てくるのはもう、自分自身への問いかけだけなのだから。

「期待しすぎただけなんじゃない?」

その問いかけへの応答をいつまでも待っている。小さな声では聞こえるが、もっと大きな声で言えるようになるまで、いつまでも待っている。


彼のことは何も責めたくない。
責めるべきは、発言の真意に向き合う勇気のない私の弱さだ。

世の中、見渡せばそんな人間はいくらでもいるらしい。(※世の中すべてとは思っていない。)
相手のためといいながら自分の欲を押し付けるような、それを抑えられないで誰かを傷つけていることに気が付かない、あるいは見て見ぬふりをするような人間が。
彼のおかげでそんなことを知ってしまった。

これからの世界が少なからず生きにくくなったと思うと共に、今までの自分が甘かったような気がしてすべて悲しくなってくる。遅刻を引き金に泣き出した数年前の自分がぴったり重なって余計に悲しい。

それに立ち向かうには、私は弱さと向き合わなくてはいけない。
でも、言葉の裏に不敵な笑みをはらませるような人とはもう会いたくないし、会ったところで理由も告げず目の前から立ち去るつもりだ。というか、もうそれに似た実績を数件作り上げている。正当防衛のために。

軌道を不当に曲げられるのは御免だ。
そう言って強いふりをしているだけなのも、きっと彼には見えているだろう。反論の余地はない。

なぜだろう。悔しさばかり。
素直さを得た代わりに、また別のところで素直さを失った。そんなものだよと言われたらそこまでだが、ではなぜあの笑顔があるのかという問いの最適解は随分と手の届かないところまでまた遠ざかっていくようだ。
この悔しさだって、1年前のこの瞬間のように消えてなくなってくれればいいのに。



…それは願ってもいけない贅沢ですか?






何も疑わなかった1年前の私、そう、あまりの衝撃に言葉を失って、剥がれ落ちた重いだけの鎧の屑と、それから解放された心のあまりの軽さに感動していた、彼によって「救われた」私に聞いている。


2020年5月17日 0時28分を生きる自分のもとに、その答えは届かないみたいだ。