認知

「人間は、同様の目線から同じ方向の風景や事象を観察していたとしても、認識している景色に個別差があるようだ」

筆者が最初にその事に妙味を憶えたのは、1989年ハワイ州オアフ島の小学校での事だった。

わたしはおよそ4歳から文字に夢中な時間の方が絵を描くよりも多かったので(単なる言い訳)絵は不得意であったが、無論、美術の授業や友人達との戯れあそびの時間にはお絵かきをする機会があった。日本の小学校で見る同級生の野外風景の絵では、それが色鉛筆であれクレヨンであれ、太陽は、ほとんどの子ども達が赤で描いていた。わたしも皆に倣っをまねしてて、太陽は赤という発想以外になかったように思う。
ところが、カラカウアにある公立の小学校へ編入してみてると、ハワイの同級生のほとんどは太陽を黄色で塗ったり描いたりしていた。
「日本よりも赤道直下の国だからか???」とも思ったが、その後、夏休みに日本に帰国した際にハワイで見上げた太陽と日本でのそれを見比べてみたものの、色そのものに相違点は感じられなかった。
(注意:裸眼のままで太陽を直視する行為は絶対に真似しないでください)

そして、見れば観る程に、

「なぜ太陽は赤だと思い込んでいたのだろう」

と、まったく不思議に感じられた。
文化の違いから、慣れ親しんだ寓話や童話の挿絵などで、日本においては太陽は赤く描かれる事が多かった等の成長過程で及ぼされた影響・背景の違いがあるのかもしれない(もっといえば日の丸の国だから赤?というのも関与しているかもしれない、え、思いつきで書いたけど、本当にそうかも日出る国だし)。
ともかく、その頃(1989〜1990年)に観た太陽は、色にたとえるのならば、それは赤でも黄色でもなく、わたしには限りなく白に近く、感じられた。

ここでまたしても脱線を辿るが、表題たる「認知」という単語について言及しておきたい。「認識」とするかで実は迷いがあった。各社辞典等の既存設定は無論筆者の脳内にも蓄積インプットされてはいるが、今後公開を予定している記事に紐付ける意味合いの他に、この過去体験談をご紹介したい。

わたしの記憶が確かならば(「料理の鉄人」フジテレビ おおよその発表年・1993年)、2002年あたりに家庭教師で担当した学生の中に1年間通して受け持ちをさせていただいた6年生の少女との授業セッション中、彼女が問題を解いている間、筆者は彼女の集中度合いや進捗度を視界に入れそれとなく観察しながら机のかたわらに厳しくない感じでぶらぶらと立ち、次に解いてもらいたいドリルや問題の吟味や彼女が置いた辞書をぱらぱらと観ていた。
その時期以前かその頃に、「笑っていいとも!」放送内でタレントのタモリさんが言葉の正しい使い方について「本来の定義をきちんと理解せずに使用している人が多い」といった内容について少々ご立服感を誇張してお話して周囲の笑いを誘っておられ、たまたまそれを観ていたわたしは「全くだよなー」と心の中で深く同意した記憶がある。
授業セッション中に筆者がたまたま手にした辞書(広辞苑だった気がするが出版元については失念have forgotten)内で、「全然」という文字が目に留まった。


(途中・2021・9・20)


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