仮)知識を智恵に変える or 表現とは

芸術・文化といった側面から「言葉」というものを捉えようと考察してみる時、
(音楽)」「(絵画等)」と比べ、「言葉」という表現ツールには明確な違いがあると考えています。
言葉はわたしたちの日常生活上での使用頻度が圧倒的に高い、という点です。
かつ、日常生活上の意思表示(表現)のツールとしてだけでなく、芸術の分野にも所属しているのが「言葉」です。(一旦この結論で着地したのは大体2001年頃)

絵を描く人でなければ日常的にカバンに「色(絵の具)」を入れている人はいません(ファッションとして服で色を持って歩いているという視点については筆者自身の「芸術」の定義から省かれているため別の機会でお話できればと思います)。
音楽を奏でる人でなければ、移動中でもいつでもどこでも楽器や楽譜と一緒だという人はいないでしょう。
言葉は、誰もがいつでも誰でもが持っています。絵描きや音楽家が絵の具や楽器をどこかへ置いてトイレやお風呂へ行く時にも、言葉はついて来ます。
意識が覚醒している時間中は、言葉を持っているともいえるかもしれません。
(↑実際にどうなのかは脳科学分野の方の智恵を拝借しつつ別テキスト)
音(声)を発せない人や、書いたりパソコンで打ったりする事のできない肉体的な条件の異なる人もいるとおっしゃる方がおられるかもしれません。
ここで筆者のいう「言葉は誰もが常備している」というのは、思考においての「言葉」です。

思考の(考えた)先に、「言葉」があります。
(「音」の領域においての「言葉」の担う役割については別のテキストで発表。)

音(声)としてであれ、SNSというインターネットの波に乗せて(視覚情報として)出したのであれ、「個人」が発した「言葉」が、時に人を支えたり、強くしたり、優しくしたり、立ち上がれない程に泣いてしまうような時にも立ち上がる力になってくれる事をわたしたちは知っています。また、(書きたくないけれど)、「言葉」は時に誰かを深く傷つけ、前を向き続ける勇気を奪ってしまったり、立ち上がらせない程の武力にもなり得る事をも同時によく知っています。どちらの場合にも、何年も何十年も、世代をこえて残り続ける点についても想像してみてください。長く記憶に残って心を支え続けたり、その逆もあるかもしれません。

「自己紹介」のテキストで「情報」について少し触れさせていただきましたが、わたしたちは情報を集めやすい便利なツールを手にしました。
国立図書館に出向かなくてはなかなか巡り合えないような本や知識を、手軽に、物理的制約(電車に乗るだとか、棚を探すだとか)なく、必要な時に必要な情報だけを抽出して手に入れやすくなりました。

そしてその「情報」も、主たる形態は「言葉」である事が(現在はまだ)ほとんどです。

「情報」≒「言葉」≒「知識」≒「智恵」

インターネットは何でも教えてくれます。情報の量も豊富です。回答の速さも魅力かもしれません。
でも筆者には、既に知っている事であっても、関わったその人自身の言葉で聞かせてほしいと思う事がたくさんあるのです。この実践を(相手の時間の邪魔をしないようには気をつけながら)筆者は2008年くらいからずっと続けてきました。幸運な事に、とても親切で愛のある友人たちがいつも周りにいてくれましたので、大体の場合、みんなは丁寧に教えてくれました。が、時々意図が伝わらずに(?)「ググって。」と冷たく(これは筆者の主観に過ぎない)あしらわれる事もあったように思います。「すでにググってからのあなたの視点(あなたの言葉)を聞かせてほしかったんだけどなぁ」と思ったりしたけれど、大した内容ではなかったのでまぁいいかとなりました(2008年以降のこの試みで冷たい反応を感じた対象者は20代前半〜30代に多かったような体感、逆に詳しく教えてくれようとした年齢の体感的分布は男女その他問わず35〜74歳に多かったという体感)。
大体の場合、筆者にとっては返ってくる内容が正解かどうかや正確性は重要ではありません(これは概ね全てにおいて2011年〜)。そりゃあ、正確性が重視されるべき場面やデータとしての数字(血液検査や月末納期書類や招聘状等での内容)等は別ですが。

「たくさんの事を知っている」というのを誇り過ぎる人を時々お見かけします。わたしの見かけたそういった人は、SNS上(もしくはTV。だが筆者はなぜだか滅多にTVのスイッチを入れられない)での方が、数が多かった印象です(2021年現在)。(→SNSやTVで「知識量を誇っているように筆者の主観には映った方々も、実際的な生活上では別の側面を持っているだろうという想像も忘れないで「見る」ことが重要)

情報や知識は多く持っている事が最重要ではないと思います。ましてやたくさん持っているから「偉い」だとかは、まったくもって言葉のまちがいです。
多くの人がいとも容易く勘違いしやすい点です。筆者自身も度々このトラップに引っかかって混乱してしまうことがあります。これからの未来や時代をみんなで造っていく上で、要注意ポイントだと思ったので太字にしてみました。
「偉い」はまた別の観点で判断すべき事項だと筆者は考えています。これは情報や知識に限らず、「お金」や「時間」や「土地」や「友人」といった言葉にも同様に当てはまります。たくさん持っている事が「偉い」という事にはなりません。

情報や知識という、保持しているものを、誰かの役に立つ(癒したり、励ましたりでもいい)何かに変換しようと想像したり考察するそのプロセス人間の素敵な点のひとつです。
実際には、一生懸命そのプロセスを踏んだとしても意図するようには伝わらない結果に着地してしまう事もあるかもしれません(これは相互認識がすり合っていない等の「言葉」以外の状況的条件も影響するので言葉だけの責任ではない)。
筆者自身も幾度となくそういった事はありました。傷つく事もあったし、もちろん傷つける事もあった。それでもこの試みについて、やめたくなかった。
伝わって、伝わったその先で、ほんの少しでも誰かの役に立ったり何かのヒントになったりした時に初めて、「知識」は「智恵」に変容すると筆者は考えています。このように考えると、「知識」を「智恵」に変換させるには、「他者」との関わり合いは、「智恵」生成上で必要不可欠なプロセスかもしれません。

「Why do we fall ?
 So we can learn to pick ourselves up. 」
なぜ人は落ちるのか
 這い上がるためだ

(「バッドマン ビギンズ」2005年、
 「ダーク・ナイト」2008年、
 「ダークナイト・ライジング」2012年、
  全編より引用、監督・クリストファー・ノーラン

落ちる必要のない、リスクヘッジをしっかりと入念に行なっておけば避けられる、とのご意見もあるかもしれません。まあまあ それもひとつのご意見
(「君の街まで」JABBA DA FOOTBALL CLUB 発表年2020年、旧名JABBA DA HUTT FOOTBALL CLUBでの初版発表年は2014年)
https://youtu.be/kDDUDTeixCg

落ちる時は大体怪我をしますし痛いです(筆者はいつも傷だらけ、でも、誰に誇ることない自分だけの勲章で結構お気に入りだったりもします。傷は、鏡に映るものも映らないものもある、全員一緒)。
あらゆる実質上の挑戦におけるプロセスで「痛い」はみんないやだけど、残念ながらこの世界でのゲーム上、初期設定のように、痛みを伴うシーンは必ずといっていいほど訪れます(子どもたちにどう伝えていくかは教育学的視点でのテキストで書く)。

電子頭脳を知育している最中なのが現在の世界です。簡単にいえば、データを憶えさせている最中で、各国によって特化した部分に差(個性のようでかわいい)が出始めているという医師の発表を拝聴する機会をいただいた事があります(発表者は内科領域の医師)。
内視鏡の先端にAIが付いており、その頭脳が判断してくれる技術です。胃カメラの先にロボットがいるようなイメージですね(←おおざっぱすぎる表現)。発表をなさっていた先生のお話によれば、ある国のAIは空間把握能力が高く、ある国は表面の解析に特化していて、ある国は電子カルテのデータの移行が進んでいるため判断(腫瘍等の成分の推察を確率や数値で算出する)の部分で他国よりも成長が速い、といった内容だったように記憶しています。
↑タイトル「AIがもたらす未来の医療とは?(AIによる画像診断、診断・手術支援)」演者:炭山 和毅 先生(発表年、2019年)

{途中 2020.8.25

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