見出し画像

“かもしれない” 日。

8月1日。
お世話になったひとの誕生日 “かもしれない” 日をお祝いした。

お祝いしたと言っても、直接会ったわけではない。それどころか、どれほど会いたくても、もう一生会えないかもしれない。今、どこで何をしているかもわからない。
それでも何かしら繋がりが欲しくて、誕生日 “かもしれない” 日にそのひとの幸せへ思いを馳せることにしたのだ。

誕生日 “かもしれない” と知ったのは、その日の朝だった。そのひとが残してくれた微かな手がかりに縋っていたときに、ふと気がついてしまったのだ。今まで気がつかなかったことに対する後悔が湧いたものの、同時に別の後悔が拭われる気もした。
最後に会った日、そのひとのことを考える日としてお誕生日を聞こうと思いながら、悲しみに暮れているうちに忘れてしまい、結局知ることができずに別れることとなった。そのひととのお別れにおいて、数少ない後悔である。けれども、もし今日がお誕生日ならそれを晴らす絶好の機会だった。

突然思い立った、誕生日 “かもしれない” 日のお祝い。わたしには自信があった。
そのひとはいつも「さきちゃんはさきちゃんのままでいてください」と言い続けてくれた。最後の日までずっと。
こんな、誕生日 “かもしれない” 日をお祝いするなんてアイデア、最高に突拍子もなくて、最高にわたしらしい。そのひとに届くことはないけれど、もしそれを聞くことができる環境だったらきっと喜んでくれるはず。

そうは言うものの、わたしは何をすべきかわからなかった。
ひとまず美味しいものでも食べながら幸せを思おうとカフェへ入ったが、入店してからわたしがあまり好きではないチェーン店系列のお店であることに気がついた。以前そこで食べたことのあるプリンはメニューから消えていて、わたしが食べられそうなものは苦手なパンケーキだけだった。買おうと思った本は売り切れていた。せっかくのお祝いなのに、あまりにも上手くいかなさすぎて泣きそうになった。

けれども注文してしまったものは仕方がない。
手元に来たパンケーキを(大変申し訳ないが)やっぱり苦手だなあと思いながら口に運ぶ。
そうしてそのひとが今どんな幸せを過ごしているのだろうと考えていて、ふと気がついた。

そのひとの幸せではなく、わたし自身の幸せについて考えれば良いのかもしれない。

お別れの日、どうか幸せになってほしいと泣きながら伝えるわたしに、そのひとは「私は先の自分が幸せになる選択をするようにしているよ」「もしそれが違ったとしても、その選択をした自分はかわいいじゃん?」と笑った。だから、お祝いの日にそのひとの幸せは願わなかった。だって、そのひとは自分の幸せを自分で選べるひとだから。そのひとがいま選んだ幸せはなんだろうと心を馳せるだけで十分だと思った。

けれども、食べながら気がつく。
あのとき泣きじゃくるわたしに「さきちゃんが私に言ってくれたように私もさきちゃんに幸せになってほしいなって思っているよ」と、そのひとは言ってくれた。自分のことを放棄してそのひとの幸せに思いを馳せるよりも、わたしがわたしの幸せについて考えて、先のわたしが少しでも幸せになれる選択をすることもお祝いになるのかもしれない。

そう気がついて、目の前のパンケーキを見る。
元々あまり得意ではない、しかもそこまでお腹も空いていなくて、ただの苦痛と化していたパンケーキ。残り一口だけ残ったパンケーキ。
これを残してみようかと思った。

「食べ物を残しちゃいけません」
幼い頃から厳しく言われていた言葉だった。
今でも賞味期限が切れたものだろうと、捨てることに大きな罪悪感がつきまとうし、満腹で気持ちが悪くなっているのに、残すのが申し訳なくて食べ続け体調を崩すこともある。「残す」という行為はとても恐ろしく、勇気のいるものだった。

けれど、その日はその選択をしてみようかと思った。
無理やり食べて、気持ちが悪くなりながら電車に揺られて家へ帰り、後悔の付き纏う1日として記憶に残るより、ここで「残す」ことを選ぶ方が先の自分が幸せになれるような気がした。

「お祝いの日だし」「わたしの幸せのためだから」
そう自分に言い訳をしながら席を立った。心臓が大きな音を立てる。お会計をしてお店を後にする。あっけなかった。考えてみれば、わたしがその選択をしたところで世界が崩壊するわけでもない。当然のことだけれど、あまりにも、あまりにもあっけないことだった。

もちろん食べ切れるものを注文するのは大前提である。けれども、自分の体調を犠牲にしてまで食べることはないのかもしれない。
それまで「残す」という選択肢があるなんて思ってもみなかった。それでも、わたしにはきちんと与えられていたのだ。
「無理をしない」という選択肢が。
「先の自分が幸せになる」選択肢が。
ずっとずっと。