2020/5/12 晴れ 東京

ご機嫌な気分は長くは続かず、夜のバイト先ではてんやわんやでベッドに入ったのは午前1時を過ぎていた。早くも梅雨が来たのかとブルーになる高い湿度がまとわりつく。天然パーマにとって梅雨ほど憂鬱になる季節はなく、早めの縮毛矯正が必要となる。思えば大学進学を機に札幌で一人暮らしを始め、引っ越し翌日にストレートパーマを施工した時の「苦い青春グッバイ」感覚を今に至るまで大事に抱えている。似合う似合わない以前に、私にとって天パは忌まわしき過去の象徴なのである。お夜食にカップ焼きそばを食べる。1分でお湯を捨て、ソースをかけレンジで2分チンする。坂口恭平に教わった食べ方。屋台の味になる。

当直室のエアコンは除湿機能がなく、クーラーの気温を21度まで下げて凌ごうとする。それなりに安眠するが身体が冷え切っている。熱めのシャワーで復活する。汗も流れ落ちて、ボディソープのわざとらしい匂いに包まれる。首都高を走り24時間ぶりの帰宅にトライする。レンタカーを返却してから吉野家に立ち寄る。アタマの大盛りにねぎだく、肉だくを追加で注文。牛丼とは別容器で提供されるのね。家に帰るとウサギがおやつを強請ってくる。僕は早く吉野家が食べたくてウズウズする。蓋を開けるとハズレの牛丼でがっかりする。牛肉が煮込まれ過ぎて黒に近い茶色になっている。アタリの牛丼はきつね色なのだ。そしてそれは回転の早い昼間か、早朝にめぐり合う確率が高い。コロナの影響なのか回転がわるくなり、深夜から煮込んでいたタネが朝まで残っていたのだろう。

半分ほど残してベッドに横になる。このまま午睡と洒落込みたいが、仕事にいかなければならない。うすく目をつぶる。半分夢の中。ずっとこのままでいたい。そうもいかなくて昼前に地下鉄へと向かう。『ウォッチメン』の影響でルーツ回帰を試みる。中村一義の『金字塔』を再生する。

始まりの始まり、「始まりとは」のギターの音に永遠なるものを感じる。「状況が裂いた部屋」で宅録された多くの楽曲はローファイどころか異様に鮮明で、高性能ハンディカメラで撮影されたドキュメンタリーのようだ。中村一義本人が演奏するモタッとしたドラムが、映像における手振れに対応する。リンゴ・スターへのリスペクトに満ちたそのドラミングは、飼い犬のように彼の歌にトコトコ付いてきたり、先走って躓きそうになったり、アルバム全体のトーンを決定している。「僕」から「みんな」への命がけの飛躍を、シリアスになり過ぎることから逃すことに成功している。(ドラムを外注した『ERA』はそれに失敗している、というか意図すら存在していない)「天才とは」でのドラムは彼のベストプレイのひとつではないでしょうか。

 呼び掛け→ドラム→呼び掛け→ドラム→サビの特異な構成から始まる曲を「犬と猫」以外に僕は知らない。のんびりしたドラムと裏腹の「同情で群れ成して、否で通す。(ありゃ、マズいよなぁ)」「探そぜ奴等、ねぇ。もうだって、狭いもんなぁ」といった鋭い歌詞は97年当時以上に刺さるし、それ以外の歌詞も基本的には終始怒り狂っている。ただ彼の声(とメロディとドラムと)で歌われてしまうとパフォーマティブに歓喜のフィーリングが宿ってしまう。その現象に後に「主題歌」で告白される「笑えるように、笑えるように、にじり寄んだっ!  それは、絶対、余裕じゃない。だから、止めないんだ」という覚悟を思い出すのもいいだろう。ただ、僕はそれは事故だったのではないか、と思う。少なくとも始まりの時点では。宿らせた、のではなく、向こうから歓喜が走り込んできた。魔法のように。その戸惑いがアルバムを支配している。その戸惑いは「永遠なるもの」で極大となる。「あぁ全てが人並みに…」から「あぁ全てが幸せに」の間に説明できない確信があって、その手応えのなさ故に永遠を祈る。

以降、彼のキャリアは、その魔法を人為的に再び召喚しようと迷走しているように僕には映る。戸惑いがないのだ。その戸惑いのなさが功を奏することもあるけれど。天才だからね。「街の灯」や「天才たち」のイルな質感も(時代もあるけれど)懐かしい。「佐野元春のザ・ソングライターズ」に出演した彼が思いのほか挙動不審で、改めて信頼した次第です。

帰りにまた吉野家の牛丼を買った。18時ごろでアタリの牛丼が期待できる。根拠は特にない。蓋をあける。ハズレではないが、アタリでもない。POP LIFE: The Podcast『ウォッチメン』回最終回でタナソウの「煙草は外で吸うのが一番美味しい」「その日の気温や風を感じながら味わう」といった煙草観に大いに頷く。ベランダで2本吸う。鼻から吸った空気で肺に煙に満たすと心地よさが倍増する。煙草は中村一義の影響で吸い始めた。今日もお疲れ様です。

妻と娘は約2週間後に東京に戻ってくることになった。妻が職場復帰について迷っている。僕を責める意図があったかは不明だけど「楽でいいよね」、と彼女。「夫が仕事を辞めるという選択は検討しない」を収入差を理由に不文律とするのはハラスメントには違いない。保育園に娘を預けること、仕事を続けること、家計収入が非対称であること、を指して「私のわがまま」と彼女は言うが、わがままなのは僕の方だ、と伝える。たとえ妻の収入が十分でも、僕は絶対に仕事を辞めないだろう。僕は僕のキャリアを誰かのために諦められそうにない。大黒柱だから、とは単なるエクスキューズで、単にわがままなのだ。それを妻が自分のわがままと捉えたのは、彼女自身の誠実さ以上に、夫婦間の構造が原因だろうと反省する。なるべくは誰もが大切なものを諦めずに済みますように。そして大切なもののために、何かを諦める強さが身につきますように。


今日の一曲/中村一義「天才とは」


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