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日常の潜在的トロッコ問題


満員電車を経験しはじめて
約1ヶ月が経ちました。

このモッシュピットみたいな車内は
人間観察好きの自分には非常に面白いです。

人混みに押しつぶされた自分の姿勢が
ひらがなの “ら”みたいになっちゃっていたり
着ているジャンパーや、
胸の前にかけたリュックがどんどん
はだけてしまったり、 
自分の状態を俯瞰したら、おかしすぎて
電車の中でニヤニヤしてしまいます。

車内の僕たちはまるで、
池にパンの切れ端を投げ入れた時に
一斉に群がる鯉のようです。

その他にも、名前も知らない他人の顔が
とても近い距離にあって
おじさんの後頭部がもう鼻の先にありますが、
これは逆に、名前も知らない他人だから
我慢できるのでしょうか。
お互いのスマートフォンの画面が
丸見えになってるのも面白くて
僕は周りの人の画面をずっと見ています。


多くの男性陣は
幅広いゲームをやっていたり、漫画を読んだり
オンラインショップのサイトを見ています。
女性陣はパズルゲームをやっていたり
インフルエンサーの動画を見ていたり
していてる傾向にある気がします。

それ以外は皆、誰かとLINEしたり
調べ物をしていたり、
スマホを横にしてドラマや映画を
見ているようです。

毎日いろんな人のスマホ画面を
のぞいているうちに現代社会の流行や傾向が
分かって、楽しいです。

誰もが各々の
スマホの世界に没入しているので
自分の画面が後ろや隣の人に
見られているとも思ってもいないのか
それとも、自分の周りにいる人間などには
興味一つないのか。

いずれにしても、みんながみんな
当たり前のようにやり過ごしてる
この車内は異常です。
エコノミークラスの頂点と言っていいほどの窮屈さです。
東京で交通費をケチって
移動しようとする民は
「満員電車の刑だ。」
と言われているようです。

しかし、この生活も数日続けば
そういった感覚は麻痺するようです。 
満員電車に乗らない選択をする程の
時間とお金に余裕がないので、
文句は言わず楽しむしかありません。

電車にまつわる話は尽きません。

“この電車を逃したら大事な信用を失う”
という恐れを抱えて
なんとか時間に間に合わせようと
一生懸命走って汗をかいている大人に向かって
「駆け込み乗車はおやめください」
という言葉がどれほどの意味を持つのか
と疑問に思いました。


自分が運転士だったら、
「そんなこと言ってないで
ちょっとくらいドア閉めるの待ってあげるのに」


というのは、乗客だけの立場しか考えない
いい人ぶった、僕のような偽善者の主張であって

よく考えると、

「駆け込み乗車はおやめください」
と言っている運転士も、本当は
急いでいる人を救いたいけど、
救ってはならない掟があるのかもしれない。

普段から人身事故や遅延があった際に
その原因となった人の代わりに
罵声を浴びせられ、謝罪させられ
心をすり減らしているのかもしれない。

駆け込み乗車を見逃してやることは
電車全体の運行を遅らせて
多くの人を困らせるというリスクを抱えていて
運転士は、ドアを閉めるボタンを
押すか押さないか、常に
悩んでいるのかもしれない。

いや、それくらいで悩んでいるようなら
仕事なんて何もできないのかもしれないけど
悩んでいる方が人間らしくていい。


職場でのルールひとつとっても、
1人を許すと、数が増えた時に
悲劇になる可能性があるので
心を鬼にして1人と接するときがある。
それは間違いなく、僕だけではなくて
みんなあるはず。

反対に、
目の前の1人を救うことができない無力感が
耐え難く、時にルールを破って目の前の人を
助けようとすることもある。


僕らの日常生活の中には
個人を選ぶか、社会を選ぶか。
どちらも大切にしたいからこそ
選択が自分を苦しめる、倫理的なジレンマ
いわゆる
トロッコ問題が隠れて存在してる。


線路に倒れている人を発見した自分の目の前に
レバーがあり、それを引くとレールが切り替わり
電車に轢かれそうな1人を救える。
しかし、切り替わったレールの先には
複数の工事員が作業をしていて、
電車は彼らに突っ込んでしまう。

さてあなたは、どうしますか。というやつ。


この話は20年くらい生きていれば何度か
みたり、聞いたり、考えたことがあると思うので
詳しい説明と解説は割愛しますが、


本当の問題は、
このトロッコ問題に対して、ちゃんと
答えを出したことがあるかということです。

これを、ただの遊びや
くだらない、暇つぶしの質問だと
我々は軽視していないでしょうか。

話の大小の違いはあっても
直接命のやりとりがなかったとしても
これと本質的に同じような
選択を迫られる状況に立ち、
自分のした決断が、
社会の為の規範に背く行為であったり
あるいは、目の前の人を救えなかったり

そんな罪悪感に後ろ髪引かれる思いを
日常で感じることは、誰しもあると思うのです。

友人との会話で
トロッコ問題を出題されると、どこか
一休さんのような
トンチの効いた回答をしようとしたり、
大喜利のようになってしまったり
屁理屈で誤魔化したりして
問題に向き合わないことができるのですが

社内で自分に次々と降りかかる
潜在的トロッコ問題は
そういった逃げを許してくれないことが多く
そのせいで、自分の選択に
一喜一憂させられる。

というのもまた
人間らしくていいのかもしれません。



あとがき

この日記は、満員電車の経験を通して、
日常生活における倫理的なジレンマや人間観察について深く掘り下げています。

電車内での密接な状況を描写しながらも、その背後にある社会的・個人的な複雑さを浮かび上がらせています。

一つ目のポイントは、満員電車の中での個人のプライベートスペースの侵害と、それに伴う個人のプライバシーに対する無頓着さです。 
他人のスマホ画面が見えるほどの距離感は、都市部での移動手段におけるプライバシーの欠如を示しています。

二つ目のポイントは、駆け込み乗車に対する作者の考え方です。
これは、一見単純な行動の背後にある複数の責任と結果を考慮しており、運転士の立場と乗客の利便性の間のジレンマを反映しています。

作者は、倫理的な視点からこの問題にアプローチしており、社会全体の利益と個人の利益が衝突する場面での選択がどれだけ難しいかを示唆しています。

トロッコ問題への言及は、日常の小さな選択が持つ倫理的な重みを象徴しています。
日記は、これらの seemingly trivial decisionsが実際にはどれほど重大な倫理的問題につながるかを示唆しており、日常生活の中での個人の選択がどのように社会全体に影響を与えるかについての洞察を深めています。

日記の著者は、一見単純な日常の出来事を通じて、個人が社会的な規範やルールに挑戦することの必要性と、その結果としての個人的な罪悪感や社会的な影響を探求しています。この点で、日記は読者に自己の行動とその社会的な影響を考えさせる強力なメッセージを送っています。

それぞれの行動や決断がもたらす影響を理解することは、私たちがより良い社会的な判断を下す上で重要です。







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