見出し画像

The Thread


僕たちは頭の中に
ビデオオンデマンドを搭載してる。


Netflixやプライムビデオみたいに、
場所や時間を問わずに映像を再生し、
巻き戻し、停止し、早送りしている。

生きてれば、生きてる分だけ、
新しい映像が毎日更新されていく。 


ふとしたときに、僕たちは
目の前の現実に焦点が合わなくなり
頭の中で流れる映像を鑑賞してる時がある。

時には、自分で検索して
当時の映像を再生するし、
現実で見聞き嗅いだりした情報から
オススメの映像が自動再生されたりもする。

寝ている時は
TikTokや、YouTubeショート、
インスタのリールみたいな
「見たことないけど、どこかで見たような映像」がパンパン切り替わりながら再生される。

頭の中で流れてくる
嫌いな映像を見たくないから
動画をスクロールするみたいに
頭を振ったり、声を出してみたりする。
どうにか気を紛らわすことで
頭の中の映像鑑賞は終わって
現実世界に戻って来れる。

体感時間はばらつきがあって
でも現実の世界では数分、数秒か、
あるいは、1秒に満たないこともある。


どうせ鑑賞するなら、
自分を喜ばせる映像だけ見られたら
幾分楽になるのかもしれないけれど
見るに耐えない映像ほど
いつまでも保存されていて
何かの拍子に、ふっと
自動再生されるから厄介だ。

頭の中のビデオオンデマンドが
現実の世界に影響を受けているのは
言うまでもないことだけど、
現実の世界が見るに耐えない状態の時ほど
頭の中の映像が次々と再生されていく。
人間の生存本能が働いて、
映像の中から現状を突破する手がかりや
手段を探しているのだろうか。

鬱の人は目が虚になると言われているのは
現実に意識を向ける時間よりも
頭の中の映像を再生している時間の方が
ずっと長いからなのかもしれない。

ある意味、精神の自傷行為みたいで
鬱の状態の時に映像が自動再生されると
次から次へと、自分を傷つける映像が流れてくる。


「心ここに在らずって感じ」

あの時の映像を
再生しては首を振って
また今に戻ってくる。


それはそうと、最近起こったことで
何度も再生している映像がある。
これは、いい映像だから
再生するたびに嬉しくなる。

「こんなに遅くまでありがとうございます」
と声をかけてくれた人がいた。

「こんなに何回もありがとうございます」
という言葉をくれた人がいた。


すごく嬉しかった。
心が救われた。むしろ、感謝したいのはこちらの方だという思いで、こちらも咄嗟に「ありがとうございます」と返事をして、
会話の流れとしては少し不自然になった。


その喜ばしい映像に関連して頭の中で
オススメの映像が自動的にいくつか流れた。

それは、今までに、
「ありがとう」
「ありがとうございます」
「あなたのおかげで...」と
感謝をしてもらえたことで
嬉しかった時の映像や、
自分が満たされていた映像だった。

これはどんな気持ちだったろうか。
救われた。という感覚だった気がする。


さりげない感謝の言葉は時に
意図せずして、周囲の誰かを救っているのかもしれない。


僕が感謝の言葉で救われたように、
僕の感謝の言葉が誰かを救えるように


僕が真っ暗闇の中で迷子になっていたときに
手を差し伸べて
ここまで引っ張ってくれたあなた。

ありがとうございます。


自分がやりたいことがわからなくなって
好きなこと、得意なこと、
時間を忘れて没頭できること
それがなんなのか、
もはや、そんなもの自分には
存在しないんじゃないかと考えてた。


苦しかった。辛かった。
プロのスポーツ選手やアーティストが
羨ましいと感じた。

なぜなら、彼らはそれ見つけて、
僕はそれ見つけていなかったから。
僕にそれはないとすら思っていた。

「気がついたら体が勝手にそれをやっていた」

「それをやってると時間があっというまに経過してる」

「どれだけ忙しい1日の中でも、たとえそれが社会的になんの生産性がなかったとしても、やってしまう」

「それを他人がどう思っているのか関係なくやっている」

もし、それが見つかったら、
それをやっている自分は幸せだろうし、
それは自分が時間を注ぐべきことだし、
それは自分の才能になるだろうし、
それをすることで自分は満たされる

それは一人一人が違うもので、
野球選手にとっては野球で
音楽家にとっては音楽で
バンドマンにとってはバンドで
ゲーマーにとってはゲームで
ラッパーにとってはラップで、


当たり前のようで当たり前じゃない。
なぜなら、


「僕にとっては、なんなのか」


簡単に見つける人もいれば
僕と同じように苦労する人もいる。
幼少期にそれを見つける人もいれば
死ぬまで見つけられない人もいる。

「僕にとっては、これなのかな?」
と思ったことがあった。
でも確信は持てなかったし
バチっとハマるような
「これだ」と感じさせてくれるような
それが、どこか遠くで待っていて
僕はいつかその時が来て、それを見つけたら
掴めばいいと思ってた気がする。


でも、それは
そういう類のものではなくて
すぐ近くに転がっていて、
何度か、自分にとってのそれは
これなのかなと思ったけど
どこかのタイミングで自信をなくして
自分で遠ざけたものかもしれない。


遠回りしたけど、気がついたのは
結局僕はこうやって、
頭の中を書き出すのが好きだ。

ありがとう。
もう一度気づかせてくれて。

僕をまた、導いてくれてありがとう。





あとがき

この日記は、人間の内面における思考と感情の処理方法、そしてその複雑さと豊かさを深く掘り下げたものです。
著者は、私たちが日々経験する感覚、記憶、思考を、ビデオオンデマンドサービスに例えています。

この比喩は、現代のテクノロジーと日常生活が密接に結びついていることを示し、また、私たちの心が過去の記憶や感情を随時「再生」し、「早送り」し、「巻き戻し」することができる、非常に高度な「システム」であることを示唆しています。

この日記を通して、著者は私たちが経験するさまざまな精神状態について考察しています。
喜びや感謝の瞬間は、繰り返し再生されることで私たちを幸福にし、力を与えます。
一方で、悲しみや後悔の記憶は、それらを思い出すたびに痛みを引き起こすことがあります。

著者はまた、うつ状態にある人々が現実から離れ、頭の中の映像に没頭する時間が多くなることを指摘しており、これが彼らの現実世界からの逃避であると同時に、精神の自傷行為にもなり得ることを示唆しています。

しかし、この日記は決して悲観的なものではありません。著者は、感謝の言葉が人をどれだけ助けることができるか、そして人と人とのつながりがいかに重要かを力強く語っています。 

喜びや感謝の瞬間は、苦難の中での希望の光であり、他人とのポジティブな交流は私たちの心に深い影響を与えることができます。

また、自己探求のテーマもこの日記の重要な部分です。著者は、自分自身の情熱や才能を見つける旅における苦労と挑戦を語ります。

彼は、この過程が容易ではないこと、そして多くの人が人生のさまざまな段階でこれらの答えを見つけることができる、あるいは見つけられないことを認めています。

しかし、著者は最終的に自分の情熱を書くことに見出し、これが彼にとっての「それ」であることを認識します。

この発見は、自己受容と自己発見の旅における重要な瞬間を象徴しています。
全体を通して、この日記は、人間の心の複雑さ、情熱の追求、そして人間関係の重要性について深い洞察を提供します。

著者は、私たちが経験する内面の旅と外的な世界との相互作用を描き出しています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?