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少年レーシング団 セキレーシングチーム

 何日か過ぎてしまいましたが、50年前の10月10日は、僕のゴーカートデビューレースの日でした。
このレースは、日本のゴーカートレースの統括団体がそれまでのJKA(日本カート協会)からJAF(日本自動車連盟)に移行した最初のレースで、オープンしたばかりの筑波サーキットの逆回りショートコースで行われました。
 
 それから遡ること約3年、小学6年生だった僕が白金サーキットでスロットカーレーシングに熱中していた頃、ここで正式なレースが開催されると、都内にまだチラホラ残っていた他のサーキットをベースにしているチームが参戦して来ました。その中に祐天寺サーキットをベースにしている、セキレーシングと言う、タキレーシングを捩った名前のチームが居ました。
 リーダーは当時大学生の関君、チームメンバーは高校生のカンバさんと小山君などで、彼らが持ち込むレースカーは速さだけではなく、ウェザーリングをしてあったりして、見た目を本物のレーシングカーに近づけているところがユニークで格好良く、僕の憧れのお兄さん達でした。ところが、そうこうしている内に、彼らがサーキットにパッタリ姿を見せなくなってしまったのです。それから半年ぐらい経って、セキレーシングは”どうしたのかなあ?”と思っていたら、ある日カンバさんと偶然出会いました。サーキットに来なくなった理由を聞くと、「俺たちゴーカートにステップアップしたんだよ」と教えてくれたのです。僕はすごくゴーカートに興味があったので、「えっ本当ですか?見せてください」と頼んで、中目黒の関君の家のガレージに連れて行ってもらいました。そばで見るレーシングカートは僕にとって最高の刺激で、その場でセキレーシングに仲間入りさせてもらいました。そして、JKAのライセンスを取って、彼らにレースや練習に連れて行ってもらってドライビングを教わり、中学3年生になったこの日、やっとレースに出られたのです。
 セキレーシングのメンバーは中学生から大学生までと年齢差は大きいのに、最年少の僕を平等に扱ってくれました。何かを命令される様なことは無く、自分のできることを自主的にやる様なポリシーの集団でした。そんな居心地の良いセキレーシングでしたが、このレースを最後に解散する事が決まっていたのです。理由は、ゴーカートレースの統括団体がJAFに変わることで、チームを登録し直さなければならないこともありましたが、1番の理由は、関君の就職が決まって彼がもうレースを続けられなくなる事でした。だからこのレースは、関君のスロットレーシングカーから続いたレーシングキャリアの引退レースでもあったのです。
 彼はこの大事なレースに向けて、トランスミッションを切り落とした175ccのカワサキオートバイエンジンをサイドに積み、寝そべって乗る、オリジナルの筑波スペシャルマシーンをデザインして、カート屋にフレームを作ってもらいました。チームメンバーが協力して彼の家のガレージで組み立てを続けたものの、設備無し、工具無しではなかなか思うように作業は進まず、結局、レース前の金曜日の段階でどうやっても土曜日の予選には間に合わないことが判明しました。僕のカートは自分で組み立て終わっていたので、相談の結果、僕が練習走行と予選に出られる様にと、土曜日の早朝に関君と僕だけ一足先に筑波へ向かうことになりました。
 初めて走る筑波サーキットはコース幅が広くてどこを走ったら良いか分からなかったものの、僕は練習と予選を特に問題も無く済ませることができました。ただ、残って作業を続けた2人は、夜になってもサーキットに姿を表しませんでした。夜中に雨も降り出し、携帯電話も無い時代だったので、2人がどうしているのか状況は全く分からないまま、その日は車中泊でした。
 
 翌朝、目を覚ますと、雨がそぼ降る中、関君のマシーンを屋根に積んだカンバさんのスカイラインバンが隣に止まっていました。結露したウィンドー越しに見たその光景は、まるで幻を見ている様で、とても感動したのを覚えています。3晩徹夜して2台のカートを組み上げ、来る途中で道に迷いながらもやっとたどり着いた2人は、車の中で爆睡していました。(実は、セキレーシングは、このレースに3台体制での参加でした。でも、このもう一台のカートの話を入れると事が複雑になり過ぎるので、あえてカットしてあります。ただ、こちらもこの2人がすごい離れ業をやって組み上げたカートで、レースはちゃんと完走しました。)
 この日は日中も雨が降り続き、僕が出場した100ccクラスのレースは、スリックタイヤではコースから飛び出さずにゴールするのが精一杯の様なレースでした。僕が参加したのは16歳以下のジュニアクラスだったので、エントリーが4台しかなかった事もあり、完走したら優勝でした。皆んなのおかげで僕はデビューウィンさせてもらうことができたのですが、台数が少なかったからかジュニアクラスの表彰式は無く、後で優勝カップと賞状を渡されただけで、残念なことに写真も残っていません。
 関君が出場する200ccクラスのレースが始まる頃に雨は既に止んでいたものの、このカートを一度も走らせたことのないまま、ウェットのコースでの、ぶっつけ本番になってしまいました。当時のゴーカートは押しがけでエンジンをスタートさせるので、一度コースのグリッドにカートを並べてから前の方から順番に押しがけが始まります。
それぞれエンジンがかかったカートがゆっくりと走り出していき、関君のところまで順番が回ってきて、カンバさんと小山君が押し始めたものの、なかなかエンジンがかかりません。ピット裏から見ていると、逆回りなので、通常の最終コーナーから直線に向けてゆっくりと進んでいくローリングスタートの隊列の中に、関君の姿が有りません。それからかなり遅れて、最終コーナーを回り切って直線に入ってもまだカートを押している彼らの姿が見えて来たと思ったら、エキゾーストチャンバーから青い煙がポッ、ポッ、ポッっと出始めました。そして、カートが2人から離れて走り出し、その青い煙が糸の様に続き出すとカートのスピードがドンドン増して行きました。そしてあっという間にショートカットの緩い左コーナーに差し掛かると、関君のカートはスローモーションの様にゆっくりテールを流してスピンアウトしてしまったのです。その時、周りに居た応援に来ていた人達やチームメンバーが発した万感こもった「あ〜〜〜っ!」の声は今でも耳に残っている様な気がします。
これで少年レーシング団「セキレーシングチーム」は解散消滅でした。

 その後、僕を含めた残りのメンバーは、JAF公認の「東京カータース」に合流してカートを続けましたが、やっとレースに出るのが精一杯の経済力しかない高校生だった僕は、色々チャレンジはしたものの、その後は3位が一回程度の泣かず飛ばずの結果でカートキャリアは終わりました。カートレースをやった事での僕の最大の収穫は、レースが好きで好きでたまらない少年が集まった、とてもリベラルな関係のセキレーシングで過ごせたことで、誰かが命令したりリードしたりするのではなく、自発的にお互いが助け合う事で生まれるチームワークの強さを教えてもらった事でした。
 
 三つ子の魂百までで、しつこい僕がボンネビルでのスピードチャレンジに参加するために8年前に立ち上げたのが、F-5 Spirits Racing Teamです。このチームも”少年レーシング団”セキレーシングのポリシーに則って、メンバーが自発的に参加し行動することで生まれる最強のチームワークで、チャレンジを続けて行けたらと願っています。
これからも皆さんのサポートを宜しくお願いします。

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