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0に何をかけても0-20200924

仕事が段々落ち着いてきた。もう二度と低予算短納期で無茶言ってくる仕事したくない。

パルメザンチーズをひたすら擦り切り職人になった。とても美味しいカルボナーラを食べた。大声で「いいだろ~~!」と自慢して回りたいぐらい。
にんじんのサラダもごりごりしていて美味しかった。にんじんとレモンはよく合うね。また常備菜作ろうと思った。


何事においても私だから、私じゃないと、なんていう物はない。だからいつ手元から消えても良いと思うようにしている。そうしないと失った時の傷があまりにも深いから。
ずっとなんてものは無いし、何事にもいつか必ず終わりが来る。終わりが来るなら最初始めなければ良いとも思うけど、そうもいかないのよね。だって「死にたくないから産まれたくない」というのはおかしな話じゃないですか。
でもやっぱり何かの終わりが来るのはいい加減辛いなと思う。今の私なら平気なのだろうか、強くなっているだろうか。
どうせ終わるなら傷が浅い方が良い、と思って全部ぶっ壊して前に進んできたけど本当にそれで合っているのかわからない。あとどれくらい組み立てては壊すということを繰り返す気でいるんだろうか。ほとほと自分に呆れてしまうなあ、などと考えながら眠りについて綺麗さっぱり忘れるというわけです。

0に何をかけても0ってすごく残酷だとは思いませんか。
可能性が全くないということ。限りなく0ではなく0でしかない。限りなく1に近くても0は0である。そういう世界を愛してしまった人間の業なんだよ。そんな世界を愛した覚えなんてないのに。


おしまい。



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