見出し画像

ハビタブルゾーン

作・みぎりん

「会いに来てね」と彼女は言った。
 目が覚める。空はあきらかに起きなくてもいい時間帯の様子で、とても心地いいとは言えない目覚めだった。その不快さにルーカスは青と紫の混じった色を覚えた。その感覚にさえ苛立ち、仕方なしにベッドから体を起こす。
 人と人は感じていることはそれぞれ違っていて、それは当たり前なのに、わかってもらえないことがどうしようもなく耐えられないのがルーカスだった。彼はあらゆる事柄に色を感じている。例えるならば数字の一と聞けば水色で、アルファベットのEは緑色、怒っている人間の雰囲気は黒のような赤色というようなものだ。それは「見える」というよりは「感じる」であった。子供の頃は感じたものを周りの人間と共有したくて、とにかく必死に伝えた。どうやら誰もがそうではないと気付いた時には、周りから除け者にされていた。「あいつはちょっとおかしい」と囁かれることに耐えられず、次第に他人の感情から否応なしに溢れる色で心が苦しくなった。わかってもらえないのならとそのうち自ら近づくのもやめて、十七歳にして誰とも仲を深めることはなくなった。しかしそんなものは気持ちを押し殺した気休めだ。たとえ他者と距離を取っても何を諦めても人生はどうしようもなく続いていく。続くだけだ。ここではからだは生きられても、とても心は生きられない。

 ろくに舗装もされていない道を進む。幸か不幸か明日の予定は何もない。気が済むまで歩くことにした。人類が滅びゆく地球からこの星へ移住して何百年も経っているというのに、発展どころか衰退しているのはどうにもならないのか、とでこぼこの道を一歩一歩踏みしめた。最低限の明かりが照らす道には酔っ払いやその日暮らしであろう人間がときどき佇んでいた。悲しい青、不安そうなグレー、社会への失望からかドブネズミのような色まで多種多様だ。歩く場所を間違えた、と思った。下を向いて思わず駆け出す。何も視界に入らないように、他人の心情が、色がこれ以上自分に入ってこないように。
 どれくらい走ったかもわからない。焦りと不安と泣き出したい気持ちでぐちゃぐちゃとした色が脳髄を駆け回る。早く無くなれ消えろ消えろと何度も唱えた。
 ナァ、と低い音がふいに色をかき消した。塀を見上げれば少し太った、見慣れない生き物がいた。この星では生き物を飼うには決まった資格の所持と厳格な審査にクリアしなければならない。要は富裕層のお遊びだ。野良猫など近頃はめっきり姿を見なくなったものだというのに珍しい。飼ってみたいと思っていた子供の頃を思い出し、軽い気持ちで手を伸ばす。猫は不快だと伝えたいような紫を纏って指に嚙みついた。予想外に訪れた痛みに悶えていると、お構いなしとでも言うような様子で猫は軽快に跳ねて道の奥へと消えていく。ルーカスは後を追いかける。追いかけて何になるというのかはわからない。ただどうしようもない夜をこのまま明かしたくなかった。

 猫がようやく歩みを遅くしたのは、見たことも聞いたこともない場所だった。故障でもしたのか不規則な点滅を繰り返すネオンのパネルがずらりと並び、ひっそりとした建物がいくつかあるだけだ。チカチカと眩いネオンの光を浴びながら、なにかに向かって歩く猫の後ろをぴったりとついていく。ふと猫は、ナァーと先ほどとは比べ物にならないほど甘ったるい声を出し眼前の人物に飛びついた。
「よしよし。今日は早かったね」
澄んだ声で猫を労う、自分と同じくらいの歳に見える少女だった。目を奪われた、と思った。不思議なことに彼女からは何の色も感じなかった。快も不快もなく、そこにあるのは彼女自身で、どこまでも透き通って見えた。さっきまで残っていたぐちゃぐちゃとした色が静まっていく。初めての感覚にルーカスの視線は彼女だけを捉えていた。
「あんたがこの子送ってきてくれたの?」
視線に気が付いたのか、少女が問いかける。
「いや、俺は別に」
追っかけてきただけっていうか、と呟くルーカスの言葉を少女は興味なさげに遮る。
「ふーん。ま、何でもいいか」
ついてきて、と少女は促す。特に断る理由もないルーカスは大人しく従った。少女は少し歩いた先にある小さな建物のドアを開ける。中はこぢんまりとしたバーのようで、ところどころに猫が寝そべったり歩いたり自由に過ごしていた。
「これ、みんな君が飼ってるのか」
「まあ、そういうことになるかな。この辺には多いんだよ」
ルーカスの問いに振り返らず彼女は話す。おおかた金持ちが飽きただとか何とかいって捨てていった子たちでしょ、と続けて返事した。その言葉に怒りのような感情が見え隠れした気がしたが、やはり色は何も感じられなかった。彼女はそのままカウンターに入り、ルーカスに座るように勧めた。
「お酒飲める?」
「……一応」
了承を得た彼女は慣れた手つきで瓶を手に取り、中身をシェイカーに加えていく。きまぐれに膝に乗ってきた猫を撫でながら、ルーカスはその様子をずっと眺めていた。しばらくして、ルーカスの目の前にグラスが差し出された。それは青にも紫にも見えるような、濁りのない冴えた輝きを放っていた。
「アースを連れてきてくれたお礼」
「アースって、あの猫か?」
そう、と頷いた彼女が少し奥を見やる。店の奥の棚のてっぺんには先ほどのふてぶてしい猫が鎮座していた。
「あの子、すぐどこか行っちゃうんだ。朝まで帰ってこないこともあるから、あんたが夜のうちに連れて帰ってきてくれてよかった」
どうぞ、と差し出されたグラスを遠慮がちに手に取り、口をつける。ぶわりと花のような香りが広がり、口の中で甘さが咲いたようだった。甘みの余韻にぼうっと浸っていると、少女は肘をついてニコニコとこちらの様子をうかがっていた。
「口に合ったようでなにより」
呆けた顔をまじまじと見られたことに恥ずかしくなり、慌てて残りを一気に飲み干す。
「美味かった、ありがとう」
じゃあ、もう帰るからと大きな音を立てて椅子から立ち上がる。嘘だ。本当はもう少しここにいて彼女と話がしてみたかった。ふいに、そんな気持ちを見透かすかのような声がかけられた。
「名前聞いてないよね」
教えてよ、と何でもないように彼女は問いかける。
「……ルーカス」
「そう、ルーカス」
「君は」
「ソアレ」
ソアレ、と口の中で唱える。何度も何度もその響きを繰り返した。
「ルーカス、また来てね」
にこやかな声で彼女はそう言った。

 ソアレとの時間はルーカスにとって何より素晴らしいものとなった。特別なことをしているわけではない。ただ夜に会って、彼女の出すカクテルを飲んで、話をして朝になるまでに帰るだけだ。彼女の話すことはときどきわからなかったけど、それでも彼女といるだけでささくれ立った色の心が澄んでいくのが分かった。時折、彼女の達観した雰囲気に疑問を覚えた。自分よりも大きな存在でもっと長く生きていて、この星の生命体とは違うのではないかと思うこともある。太陽のようだ、と人を喩えることばがある。どうもはるか昔、地球に住んでいた人類の先祖が使っていたらしい。ほとんど失われた本来の太陽の恩恵を受けず、管理された人工太陽のエネルギーで生きながらえる自分たちにはとうにない感覚だ。しかし喩えるのなら、ソアレはまさにルーカスにとっての太陽だった。時にこっちを振り回すような言葉を唱え、時に明るく楽しませる振る舞いをする。そんな彼女にひそかに焦がれていた。彼女にならたとえ焼きつくされてもいいと思った。
 一度だけ、彼女に自身の色の感覚について話したことがある。「誰にもわかってもらえないのがつらかった」と吐き出した。彼女はそれを最後までただ黙って聞いて「誰の気持ちも、誰にもわからないもんだよ」と言った。
「例えばさ、私は悲しい気持ちの色はって聞かれたら赤かなって思う」
「赤?青だろ」
「ほら、わかんないでしょ?人の考えなんて。みんな違って当然だけど、自分の感覚でしかものを測れないから」
「わかってもらえないかもしれないけど、お互いの感覚を擦り合わせて相手のことをわかった気持ちになるの」
「俺は嫌だ。悲しいよ、そんなのは。本当にわかってもらえないなんて。うわべだけじゃないか」
「最初はうわべだけでいいんだよ。それがきっかけになって、相手のことを思いやって行動できるならそれは愛って私は思うかな」
「……ソアレの言うことは時々わからん」
「はは、あんたの周りにそんな人が少なかっただけだよ」
「だからまあ、そのうち会えるといいね。あんたが大事にしたいと思える人に」
そう言ってソアレは薄く微笑む。そんな相手は君だけだと、とても今のルーカスには言えなかった。

 終わりの合図はいつだって急にやってくる。
「もう会えないの」
手に持ったグラスを落とすところだった。爽やかに軽やかに彩られた黄色の飲料とは裏腹に、彼女の宣告はルーカスに深く暗い影を落とした。一口目のすっきりとした味わいは、いつの間にか苦みがじわじわと広がっていった。
「引っ越すことになった」
「引っ越すって、どこに」
「遠いとこ」
「なんだよ、それ」
中身のない問答を繰り返す。仕方がないような表情の彼女に苛立ちを覚え、思いがけず乱暴に立ち上がる。こんな時でもソアレの色は何もない。
「どこにも行くなよ」
カウンター越しに彼女の腕を強引に掴み、顔を覗き込む。ルーカスの心を黒がどこまでも覆っていった。
「俺は、君の側じゃないと息ができないのに」
何とも情けない言葉だ。本当はもっといいロケーションで、カッコつけた言葉で彼女に伝えたかったのに。
 ぴたり、と冷たい指がルーカスの頬に触れた。黒がゆっくりと剥がれ落ちていく。どうして彼女の言葉は、一挙一動は、こんなにも自分の色をまっさらにしていくのだろうか。
「違う星に行くんだ」
ここではあまり長く生きられないから、とソアレは呟いた。時折、彼女の達観した雰囲気に疑問を覚えていた。自分よりも大きな存在でもっと長く生きていて、この星の生命体とは違うのではないかと思うこともあった。それが合っているのか間違っているのかはもうどうでもよかった。
「私にはできなかったけど、あんたは大丈夫だよ。この星で生きていける」
「からだが生きてるだけだ。俺の心だって君と同じだ。ここじゃ生きられない」
「そんなことない。あんたはまだ十七で、この先の人生を知らないだけ。穏やかになれる時がきっと来るよ」
「……いつかのことなんて、わからない」
「今はそれでいいの。……またどこかで、店を開くから」
「ここで精一杯生きたって胸を張って言える時が来たら、私に教えて。会いに来てね」

 思い出の地には何も残っていなかった。ネオンの看板も彼女の店も初めから何もなかったかのようだった。多くいた猫はあまりの数にさすがに行政が保護することとなったらしい。ペット飼育の条件は今後さらに厳しくなりそうだ。
 「会いに来てね」と彼女は言った。いつになるだろう。きっと彼女は何年経っても変わらない微笑みで迎えてくれる。行くならできるだけ早くがいいと思った。それとも、うんと遅いほうが彼女は喜ぶだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?