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グレーな世界で生きるということ

「七海さんは変わっているね〜」

ある精神科病院の院長と食事をしていた時。彼が目を細めて放った言葉。あなたは変わっているという言葉は正直聞き飽きていたし、いつもなら「そうですか?」と微笑み流していた。相手が精神科医だからか、今回、私は間髪入れずに聞き返した。

「どこがですか?!」


「ADHDとASDが合併しているから!!」彼は自信満々に答えた。



物心ついた時からこの世界は謎だらけだった。

私にとって世の中のスピードはとても早かった。

なぜ毎朝早起きして幼稚園に行かなければならないのか?みんなは楽しそうに遊具で遊んでいるけれど何が楽しいのか?どうして運動会なんかあって走らなければならないのか?4歳の少女とは思えぬほど私は無気力で、女子の集団には入れず、いつもひとりぼっちだった。

小学校に入学してからは、時間割通りに行動するという目的があり少しだけ安心できたけれど、相変わらず休み時間になると何をして良いか分からなかった。女子の集団にも付いて行けなかった。けれど、みんなが好きな物を好きと言い、行動を真似れば仲間外れにならない事を学んだ。私は周囲の人々の言動をいつも観察していた。そして自分の心と対話していた。私の頭の中にはもう一人の私がいて、沢山の話題を提供してくれる。だから、友達がいなくても、私は寂しくなかったし、もう一人の私と話すことに忙しかった。

中学生になると数々の拘束の意味が分からず益々世界が窮屈になった。ルール通りに生活することが私にはとてもストレスだった。親の言う通り勉強や部活をして好成績を残しても空虚感しか残らなかった。中学が終わればこの現実は変わると思っていたけれど、ちっとも変わらなかった。私は学生がやらなければならない、勉強や部活、行事、友達付き合いを作業のように進めていった。

両親が希望する大学に進学し、彼らが望む職業に就いたけれど、私はマルチタスクが全く出来なかった。1分と休む暇のない多忙な現場でミスを連発し、先輩には本当に使えないんだから!と毎日叱られた。始末書を何枚も書き、自分の行動が信じられなくなった。疲れた時は音や光がストレスとなり、仕事から帰ってきてテレビを見ることが出来なくなった。家の中はほとんど間接照明に変えた。自分は仕事が出来ないんだと絶望した。私は何のために生きているんだろうと、毎日泣きながら帰った。

それと共に、私は恋愛関係というものでも苦労を重ねた。男子から優しくされるのは心地よいことだった。女子の生産性のない無限ループの会話より、歳上の男性の話す会話は楽しく興味深いものだった。どうして一人の人としかお付き合いをしてはいけないのか。これも私にとって大きな疑問だった。だから友人に恋愛関係について相談しても理解されず、自分を安売りしているなどと批判された。気持ち良いセックスをすることが、どうして安売りになるのか私は分からなかった。


全てが嫌になり、両親の反対を押しきって私は仕事を辞めニートになった。25歳だった。

これまで感じたことのない開放感に私は人生で初めてウキウキした。空気が胸の中に沢山入ってくるような気がした。見るもの全てが美しく、流れる時間は私の歩幅のようにゆっくりだった。もぅ誰に合わせることもなく、規則に従うこともなく、自分が人生の舵を取れることに喜びを感じた。

日本を、世界を一人で旅した。

しまなみ海道を自転車で猛スピードで駆け巡り、慶良間諸島の海で魚とあそんだ。長野の山奥で亀虫と一緒に寝たり、五島列島の教会を巡った。

インドの物乞いの子供達はとびきり明るくて、ピピ島では世界中の若者が踊り狂っていた。ラオスで全ての荷物をタクシーに忘れた時、見ず知らずのカナダ人が助けてくれた。トルコのバス停で一時間もバスを待っている時、向かいの農家の男の子が葡萄をプレゼントしてくれた。


私は生きてきた地域や出逢ってきた人々に縛られていただけのことだった。ぼんやりしているお陰で、沢山の人が心配し、助けてくれた。私は私のままで良いことを知った。

それから私は大学院に進学し、今は本当に自分にあった仕事をしている。

ADHDかASDかは診断を受けていないので分からない。私は自分を変える事を諦め、私に合った環境、自分を受け入れてくれる人々の中で生きていく事を選んだ。高い給料や名声はない。背伸びせず、誰かに合わせようとせず、法に触れない範囲で自分のしたい事をしていく。これからの未来を想像し少しだけワクワクする毎日が、私には丁度いい。










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