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夏休みでの成長か変化


最近急に、なんらかの形で自分を表現したいな、と思ったのでnoteを始めてみました。よろしくお願いします。


文章が一番気軽に自己表現できるかなあと思ったのでこの方法を選びましたが、せいぜい二十年生き延びてきただけの僕の中に大したものがあるわけでもなく、書き始めたはいいものの、何を書けばいいのかわからないですね。でもやっぱり何かしら書かないと始まらないので書いていきます。


僕は、スポーツと1990年代のロックや名作と呼ばれる小説、アニメ、それから数学や物理学などが好きです。
上記のような昔からあってきっとこれからも価値があるだろうものは人生において大事で、だからもちろん今も価値があって、今というかけがえのない瞬間にはそれらの価値のあるものについて掘り下げ、時間と労力を使うべきだと思っていました。
つまり、いま世界で起こっているイベントや流行なんかよりそれらの方が絶対的に大事だと思っていました。今という時代を生きている周りの人との交流よりも昔の天才が残した学問や芸術の方が絶対的に価値があり優先すべきだと。今起こっている最中のことやモノについて、今この時代を生きている人にはどうやっても客観的に評価できません。でも名作はもう評価がなされ、その価値が証明されているわけですから。

でもこういう考えだとどうしても、今生きている意味が分からなくなりがちなんですよね。名作をなぞるだけなら今を生きている意味はあるのか?昔っからあるものだけを吸収するだけなら自分の人生は大昔を生きた人とおなじようなものなんじゃないか?って。結構きついんですよね。

でもまあなんていうか、単刀直入にいうとその考えが変わりました。どういう経験を通じてこういう風に変わりました、ってのは詳しく書くとちょっと長くなってめんどくさいので、簡単に書くと、サークルの合宿に行きました。ここ数年で一番密な三日間でした。そこでは一日中仲間と一緒にいて、練習して、夜はテレビでバスケ日本代表の試合を見て、恋バナをして寝ました。自分は本当に幸運なことに周りの友達が優しくて尊敬できて面白くて、すごいなあと思う人ばかりなのでとても楽しくて幸せでした。
それで帰ってきてなんとなく、いつもと違うなという感覚がありました。なにがどう変わったのかは自分でもよくわからないですがとにかく、今この時代で「今」を体験すること、この時代だけのすぐ忘れ去られるようなニュースやものにさえ、かけがえのなさと尊さがあり、名作と呼ばれるような物たちに負けない価値がある、とわかりました。たとえ数十年後思い返してみたらしょうもないものでも、それを思い出せること自体に価値があるし、その思い出す行為こそが自分がその時代を生きた証であるのかもなと感じました。

つまり、ただ今を生きて身の回りのことやモノを見て感じて、いいなと思う、テレビを見て笑ったりニュースを見て憤ったりしながら家族とご飯を食べる。学校に行って友達としゃべったり、会社に行って職場の人と世間話をしながら仕事に追われたりする。そんな行為こそが生きる意味そのものだし、そんな日々を土台としたその上で名作について深く掘り下げたり、スポーツに打ち込んだり、研究に没頭したり夢を追ったりするのが生きることなのかなと今は思ってます。

もちろんこの考えはちょっと経てば変わってるだろうと思います。ずっと座右の銘が同じなのはよくないと思います。常に変わっていくこの世の中で生きててずっと同じ価値観を貫くのはなんていうか間違ってるし、常に自分なりに考え続けて、その時々の最適解を出したり、変えたりしていかなきゃですし。
好きな漫画のセリフがあります。
「この世界は歪んでいる
 なにが正しいか…なにが間違っているか
 簡単にわからなくなる
 だから考え続けるんだ…お前の選択が間違っていないか
 その行為だけは正しいと言えることの筈だ」



なんていうかやっぱり自分を表現するにはある程度の図々しさというか、自分の生み出すものに自信を持てなきゃだめだなと感じました。少なくとも自分だけは自分の価値を見出さないと、例えば客観的に見てゴミだったとしても、自分が宝物だと思えばそれはもう宝物だし、自分でもゴミだと思えばそれはただのゴミです。途中で作り飽きてしまいます。
ちなみに僕は宝物とまではいえないけどゴミだとも思ってません。
リサイクルごみくらいかなと思ってます。

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