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⑤竹生島

竹生島④では陰陽道についてと豊臣と淀殿の関係の前置き?になる事を記した。今回もその続きを豊臣秀次から紹介していきたい。


この竹生島物語、《勝手に名付けちゃう》最終章までまだまだ先になると推測。壮大なるストーリーと驚きの気づきと発見を伝えたい一心で日常の合間にちょっとずつですが書いていくと決めました。まとめあげれるか…素人の自分にそんな腕があるかは未知です。できるだけ読んでみたいと思えるように書いていけたらなと思います。こうしたら記事読みやすくなるよ!とか使い方とか気付いた点あったら教えて頂けたら嬉しいです♪なんせ機械おんち。。。笑
では、はじめてゆきます。


豊臣秀次(とよとみひでつぐ)

1568年、豊臣秀吉の姉(瑞龍院妙慧日秀尼)の長男として生まれる。
秀次は幼子の頃から2度養子として送られている。
1度目は宮部 継潤(みやべけいじゅん)
この方は浅井長政の家臣だった。秀吉が秀次を人質として送りその流れで養子となる。浅井長政が没すると羽柴に戻っている。

2度目は三好康長(みよしながよし)
織田信長以前に四国東部、畿内一円に大勢力を気付き上げていた一族。
三好に養子となった秀次。この経緯にも秀吉は絡んでいる。秀吉は四国に目を向けていた。なんせ秀吉はとあることを知ってしまっていたから。我が手で四国を統一し手中に収める必要があった。その為に三好一族と友好関係を築くべく1579年秀次を養子として送る。その後秀次の父までもが三好性を名乗るようになる。

余談。。この三好一族。今後とても重要になってくる一族なのでポイントとして押さえておいてほしい。


ではでは何故秀吉と淀殿の暮らしに秀次が巻き込まれていったのかということだが…
これは予想してる方もいることだと思う。そう、豊臣家存続の為の嫡男問題。

先ずはこの画像を比べてみたい。

Wikipedia抜粋
Wikipedia抜粋
豊臣 鶴松(捨)

「似てるよね?え?似てない??」


秀吉はどんな手を使ってでも豊臣家を存続させたかった。その為に参籠をさせるのだが、複数の男性では豊臣の血は混ざらない。豊臣家の血を引く後継候補の秀次を秀吉公認の上で茶々とお籠りさせた。
そう、1人目は上手くいった。秀吉はそれはそれは大いに喜び、淀城を築城したほどだ。茶々はその後淀殿と呼ばれるようになる。1589年7月、鶴松(捨)を出産。

鶴松はきっと淀殿と秀次との間の子。
20歳の秀次と19.20歳の茶々。若々しい2人である。
身籠もる可能性は秀吉より高確率じゃないだろうか。


「私には父と子がそっくりに見えるんだけどなぁ…。」


そして、その勢いに乗るかの様に秀吉は小田原城を包囲し北条氏に降伏を受け入れさせ1590年日本統一を果たした。
我が公認の世継ぎが生まれ、日本平定し天下統一を果たす秀吉。順風満帆だ。


だが、幸せも永くは続かなかった。
天下統一を果たした翌年1591年、副将として長く秀吉に尽くした弟の秀長が51才で病死。そして、なんと…
鶴松もが同年9月息を引き取る。享年3歳。

秀吉ここに来て予想にもしてない悲劇が襲った。

我が子を失う親の気持ち。言葉にせずとも淀殿の想いは理解できる。秀吉もそうであっただろう。そして母親の淀殿を気遣いそっとしておいてあげたい気持ちはあっただろう。そういう愛情深さは寧々や家臣達との関係をみていると少なからずあったと思う。


この件もあって
世継ぎのいなくなった秀吉は秀次を養子とし、朝鮮出兵
(文禄の役)の前に関白の職と聚楽第を譲り相続させた。

だが、しかし…だ。

女の怨みを甘くみてはいけない。
淀殿は普通の女性ではないことを知ってたのかいないのか?秀吉は秀長、鶴松を亡くし、油断していたのかもしれない。
その悲しみをぶつけるかの様に時が迫っているかの様に全国統一だけでなく朝鮮出兵、世界征服へ野心を向ける。
しかし、更なる悲しみが訪れる。1592年7月、実母の仲(大政所)が死去。父を早くに亡くした秀吉は母をこの上なく大切にしていた。だが朝鮮戦争へと踏み込んでいた秀吉は死に目に会えず大変ショックを受ける。この度重なる悲しみが秀吉に更なる油断を与えたのかもしれない。

淀殿はここがチャンスとばかりに秀吉が朝鮮出兵で留守の間に動いた。
淀殿は自ら参籠をするよう極内密に淀殿の側近筆頭に計画を立てた。そう。場所は聚楽第(じゅらくだい)。秀次の拠点となった聚楽第である。この時北政所(正室の寧々)の居ない場所でもある。秀頼誕生が1593年8月3日であることから受胎日は11月4日前後。その時期秀吉は肥前国の名護屋城へ身を置き朝鮮国への出陣に指令を送っていた。そこに淀殿は同行していない。

淀殿のご懐妊を秀吉に知らせたのは
正室の北政所(おね、寧々)。
妊娠8ヶ月頃(5月)、秀吉は北政所からの懐妊の知らせに返信している。

「(返書)この間は、すこしかいき(咳気)いたし候まゝ、文にて不申、文のかきはし(書初)めにて候。又にのまるとの(二の丸殿)みもち(懐妊)のよしうけ給(承)候。めてたく候。われ/\は小(子)ほしく候はす候まゝ、其心へ候へく候。大かうこ(子)は、つるまつ(鶴松)にて候つるか、よそへこし候まゝ、にのまる殿はかりのこ(子)にてよく候はんや。」

「このところ、ちょっと咳が出ていたもので、お返事おくれてすみません。
茶々が懐妊したこと、うけたまわりました。めでたいことです。
われわれ夫婦は、もう子はいらないと心に思ってきました。
太閤の子は鶴丸のみでしたが死んでしまいました。茶々の子は「仮の子」であります。」

秀吉は返信が遅れたそうだ。過去を遡り自分の子でないと悟った秀吉。脳内で推測と様々な感情とが駆け巡り精神を脅かしていたのだろう。

淀殿はきっと出産予定日もその時には告げていたはず。
『予定月は7月中旬』と。本当は8月上旬。
秀吉が10月1日名護屋城へ出陣する前にそれとなく秀吉と関係があったかの様に濁したかったのだう。


7月18日姫君が産まれたと京で噂が流れている。
予定月を知っている者達はまだかまだかと首を長くして待っていたからこの様な噂が流れた。そう思う。



しかし、子は産まれない。
秀吉はさらに不信感を募らせたんじゃないだろうか?

そして8月3日、秀頼誕生。
同日秀吉は出産を祝っている。10日には立ち25日には大阪に着くだろうと北政所に手紙を出している。

そして秀吉、赤子の名前を決めるが北政所にこの様に伝えている。

(返し書き)かへす/\、こ(子)のな(名)わひろい(拾)と申候へく候。こなたを二十五日にい(出)て可申候。やかて参候て御めにかゝり、御物かたり申候へく候。

はや/\とまつら(松浦)人おこ(越)し候事、まんそくにて候。そもしよりれい申候へく候。さためてまつら(松浦)こ(子)をひろい候て、はや/\と申こし候間、すなわち、このな(名)わひろいこ(拾子)と可申候。した/\まて、おのし(字)もつけ候ましく候。ひとい/\と可申候。やかて/\かいちん(凱陣)可申候。心やすく候へく候。めでたく、かしく。

  (文禄二年)八月九日

     おねへ まいる      大かう

赤子の名は「ひろい」とすること、下々の者まで「ひろい」の名に「お」をつけぬこと。

拾う。
秀吉にとって拾った子。確かにね。
それに「お」を付けてはならぬと。
敬ってはならない子であるといいたいのだろう。

秀吉はその後8月25日大阪へ戻り
拾いと対面したと思われるが淡白な対応をとっている。
捨て(鶴松)の誕生のときには、多くの公家や僧侶に大量の金配りが行われ、数え切れないほどの祝賀行事が行われた。

しかし、(拾い)秀頼の誕生のときには、そうした金配りや祝賀行事はほとんど行われていない。


名護屋城で秀頼の誕生を聞いた秀吉は、その後7日間名護屋城に滞在し、11日かけて大坂に戻っているが、以前の大政所(実母)の臨終のときには、知らせを受けた翌朝直ちに出発し、10日間で大阪に戻っている。

淀殿にどう問い詰め対応しようかと模索していたのだろう。

対面した秀吉は淀殿からきっぱりこう告げられる。
「この子は太閤様と私の子です。あの一晩に神仏から授かったのです。豊臣の世継ぎの子であります。これからも豊臣は天下であり続けるのです。」
淀殿はひとぶれもせず頑固として太閤の子と言い張ったんじゃないだろうか。

こんなに可愛らしい若君。子煩悩な秀吉は拾いを一目見ただけで愛おしくなったには違いない。養子養女までを溺愛する程の秀吉だ。

このおちゃちゃ(淀殿)がこのように申すならそうなのかもしれない。鶴松を亡くしたばかりの母に問い詰めるわしにも無礼があるかもしれぬ。疑いは晴れぬがここは暫く時が経つのを待つことにしよう。
とその時は穏便に済んだのかもしれない。


それでも納得のいかなかった嫉妬深い秀吉、
怯える秀吉は赴くままに動いていく。
ここから豊臣家は泥沼の悲劇へと発展していくこととなる。

9月4日
秀吉は留守の間関白としてしきっていた秀次に上洛し会いに行った。国の5分の4を秀次に、5分の1を拾いに与えると伝える。
秀吉は秀次にかまかけたのだ。
秀吉作戦その1
・何故お拾いが産まれたというのに私に領土を与えて下さるのか?と疑問をなげかけてくればお拾いは秀吉の子としよう。
・淀殿の懐妊を怪しんでいる。そうなると関白である私が豊臣を背負っていく上で領土を存分に与え下さることは名誉なことです。とくれば淀殿を暴こう。

だが秀次はそのどちらともいえないあいまいな反応。
思いもよらぬ秀次の反応に困惑したはず。
秀吉はこの時きっと秀次の異変に何か勘付いたかもしれない。

実際秀次からはっきりとした返答は得られてないという。

その後秀吉は拾いを今後どの様に豊臣家の世継ぎとして
育成していくか家臣とも相談し合う。
そこで大阪城で女房達に怪しい動きがあったことを小耳にはさむ。
このことを世間に知れ渡らないよう虎視眈々と留守中に起こっていた出来事を裏組織を利用しながら調査させた。
秀次が何かを知っているのではと疑いはじめただろう。
9月10日女房衆竹(お竹)を捕縛。


その頃秀次とはいうと
拾いが産まれてからいうもの、そのことに対し都合が悪いのか、自分の身の危険を察しているのか、京から逃げるかのように湯治のため伊豆熱海で過ごしている。
(湯治中喘息は酷くなっていた様で精神を脅かされていた)
そう。秀次は聚楽第で淀殿と関係を持っていた。まさか本当に身籠ってそれに男子だとは予想もしてなかったはずだ。

不安を押し殺せずに
伊豆熱海から淀殿へ(他湯治のため有馬温泉滞在中の秀吉、北政所)手紙を出している。我が子(お拾い)の様子も気になるところでもあったかもしれない。それか、もしかしたら淀殿に何か確認をとりたかったのではないか?目に見える文だけではなく、2人しか知り得ない方法でやり取りしてるかもしれない。そのカモフラージュとしてその他へも手紙を送っているのだろう。

《この秀次の文の詳しくが駒井日記にあるらしいのですが、ネットでは見つけ出せなくて…行き詰まってしまいました。なんせ古文書とか読めない。研究者って凄いな。》



秀吉は9月22日茶会を開き、招いた人から聴衆していく。
そしてやはり大阪城の淀殿女侍らに怪しい動きがあったことを耳にすることとなったのだろう。


秀吉は前田利家夫婦と相談した後、
秀次に追い討ちをたてていく。
秀吉の作戦その2
・秀次の娘とお拾いを縁談させる。
そうすることで関白の秀次と太閤の血縁ができ、
益々の豊臣家の結束が強くなる。
秀次の後お拾いが関白となれば双方安泰だという表向き口実。
裏の口実とは、捨ての父は秀吉公認の秀次であったのでもしや秀次が淀殿と密接があってそれによって宿った子ではないかと疑った。そうなると我が子と我が子を縁談させることとなる。近親交配は流石に危険だ。
秀吉は秀次のこの反応を見たかったのだろう。
秀次が縁談を受け入れれば秀次の子ではない。
秀次が縁談を拒めば淀殿の子の親は秀次だ。




秀吉は決定打を取るため指示をだそうとしたその時、
淀殿から報告を受ける。
淀殿が白状した。大阪城で女房衆と陰陽師、僧侶に金銭を渡してが不行を行いました。と。

秀吉悪い予想は的中。。。。。

そして淀殿の言い分を聞くことになる。
さて、淀殿はどう言い訳をしたのだろう。

「太閤様、お拾いは貴方様の子です。これは確かなことです。私は豊臣の世継ぎの子が欲しかったのです。貴方様をお守りしたかったのです。鶴松の亡き後私は悲しみ明け暮れました。ですが太閤様が朝鮮出兵へと出向いた時気が付いたのです。他国に勝ち、世界を統治するには太閤様の嫡子が後継者とならなければならないと。
ですので私なりに考えての決断を致しました。
私は秀次様と参籠を以前行い鶴松を身籠りました。それが許されるのならばもう一度秀次様と…それで身籠れば太閤様の嫡子となると思い秀次様にお願いしたのです。そして、必ず嫡子(男の子)を産まなければならない、その為に陰陽師の方に願掛けをお願いした次第であります。北政所様に相談すると止められるのは分かっていました。太閤の公認がないと。と。それでは遅いのです。世間に太閤の子ではないとバレてしまいます。だから私は急いだのです。女が身籠れるのは月に1回のみ。戦はいつ何とぞ起こるや分かりません。生と死の間にいるのはよく存じています。この月に身籠れなければ私は父と母の元へいく覚悟で動いたのです。相談なしに孕って産んだこと何卒お許し下さいませ。この子は秀次様と私の間の子。それは、豊臣秀吉の子。豊臣の世継ぎの子でございます。」

そう、淀殿は秀次の子と報告したのである。

それを聞いた秀吉はさぞかし頭を抱えて悩んだろう。
鶴松(捨て)は秀次の子であった。それならばお拾いも秀次の子でも問題はない。秀次はなんせ今や関白の地位。知っているのは淀殿、秀次、秀吉、そして淀殿の女侍。世間に知られてはまだいない。秀吉の子として豊臣家を繋いで行くにはこれこそ神の恵かもしれない。
秀次の子ならば…許すべきか…取り敢えずこの一連を知る人物、中核となった人物を始末していこう。


秀吉はこの事を知る人物を処罰していく。
10月20日大坂にて茶々姫の家中女房衆(「大坂若公ノ御袋家中女房衆」)が秀吉の留守中に不祥事を起こし一両日中に成敗されることが時慶に伝わっている。
10月21日女房衆処刑。


10月25日淀殿へ文を返している。

かえす/\、ひろいにち/\(乳)をよく/\のませ候て、ひとね候へく候。ち/\たり候やう、めしをもまいり候へく候。すこしももの(物)きにか(懸)け候ましく候。以上。

たかのとり(鷹の鳥)五つ・みかん(蜜柑)のひけこ(髯籠)三つ進之候。

一日は文給候。返事申候はんところに、いそかわしき事候て、返事不申候。おひろい(拾)なをなをけなけ(健気)に候や。ちゝもまいり候や。やかても参申候はんか、きうめい(糾明)をいたし候て、参可申候。そなたへわかみ(我身)こし候はゝ、かうはら(業腹)た(立)ち候はんまゝ、まつ/\こなたにてききとゝけ候て、すまし候て参可申候。かしく。

   廿五日

               ふしみより

   おちゃ/\         大かう


(返し書)くれぐれも拾に乳をよく飲ませ、怠りなく養育に努めてください。乳が足りるように、あなたもしっかりと食事をしてください。あなたは何も心配する必要はありません。 鷹の鳥五つと髯籠入りの蜜柑を三つお送りします。 一日に文をいただきました。すぐ返事しようと思っていたのですが、多忙ゆえに返事ができませんでした。お拾はますます元気でいますか。乳もよく飲んでいますか。すぐにでも会いに行きたいのですが、不祥事の糾明を終わらせてから参ろうと思います非常に腹が立っているので、今そちらへ行ってしまうといけないので、まずはこちらで詳細を聞き届けた上で処罰を済ませ、そちらへ参ります。 

  お茶々へ          伏見の太閤より


秀吉かなりキレている。
淀殿にキレている。
普通側室で産まれた子は正室に渡され、自ら育てることはない。乳をやることもない。
拾いは自分で育てろ。乳がでないなら自分がしっかり食べろ。と言っているのだ。
今淀殿と対面したら秀吉は淀殿の命を奪うかもしれないと自分で察している。


淀殿にとっては想定内。
身籠る前から覚悟していたこと。

淀殿は熱海から届いた秀次の文に返事をしておりそれが女房衆処刑前に届いている。



御ゆふさいまいらせ候て、はやきよすまてくわんきよ成候よし御申候て、 御ねん此の御ふミ御うれしさめてたく思召させをハしまし候、 大かうも一たん御きけんよく御入候て、このほとハしゆらくに御成候、

ひめ君も御そくさいの御事にて御入候よし申候、 やかて御上らくの御事まちまいらせ候、 返々御文御うれしく思ひまいらせ候、 なをめてたき御事、かさね/\申うけ給候へく候、かしく、

人々御中

まいる  申給へ


細川幽斎(藤孝)より、あなたさまがはや清洲までお帰りになるという丁寧な御文を頂きました。

ご無事をおめでたく思い、このお手紙が嬉しくありがたく思っております気持ちをお伝えしたく思います。

太閤殿下も一段とご機嫌がよくいらっしゃり、この度は聚楽第にお成りになりました。

清洲姫君も御息災でこちらにい上洛されたをお知らせいたします。

やがてあなたさまも御上洛なさるとのこと、首を長くしてお待ちしております。

かえすがえす、あなたさまのお手紙を嬉しく思っております。

また慶事についてしかと相談いたしましょう。


淀殿はお拾いと清洲姫(秀次の娘)の縁談を喜んでいる。

秀次にとって何故淀殿が喜んでいるのか疑問でしかなかっただろう。秀次は淀殿のはかりごとに勘付き驚愕。
秀次は淀殿の怖さを知る。
女ってこんなに怖いのか〜((((;゚Д゚)))))))
更に精神を蝕んだに違いない。


淀殿は秀次に
太閤様は元々疑っていたのです。誰の子かと判明させる為に下した縁談なんです。秀次様が私をそそのかして関係を持ったのだと思っていたのです。
私は自ら私が秀次様にお願いし秀次様との間に授かったことを白状しました。だから貴方に大罪が課せられることはありません。これは私にとって心苦しいことでありますが、私の女侍が身を張って罪を被ってくれます。私も全て罪を被ります。秀次様は縁談を拒んでもかまいませんよ。秀次様自ら太閤様の機嫌をとるに縁談を組んだままにしてもいいです。世間からは秀次様と太閤様の血縁に大変喜ぶことでしょう。これからの豊臣を継続させていくためには今はそれがいいのかと私は思っています。
太閤様の容態はそんなによろしいものではありません。永くはないでしょう。時期に秀次様の時がきます。
だから安心して清洲姫とお拾いの縁談を祝福してもいいのです。時がくれば離縁させれば良いのです。

この様なやり取りが2人の中であったのだろう。
淀殿と秀次は秀吉の最後の時を待っていたのかもしれない。
実際秀吉は梅毒にかかっていたとされ、その為に湯治を頻回に行っていた。有馬温泉は9回も行っている。
有馬温泉は炭酸泉。
炭酸水は避妊効果があると言われていて自病も要因かもしれないが、この炭酸泉も世継ぎが産まれなかった原因なんではないかと私は推測してしまう。


淀殿からの手紙により安堵した秀次は
10月11日熱海から聚楽第へ戻っている。(女房衆が処刑される前に)

そして10月27日伏見にて
秀次と秀吉は会っている。
2人とも決着がついたのだ。双方お拾いを豊臣家の世継ぎとして認めたのだ。秀次もやっと心休まったかもしれない。

12月には秀次は秀吉、北政所、淀殿、お拾いへ歳暮を送っている。


だがしかし…まだまだ淀殿の表向き計画。これで全てではない。


なんて闇深いんだ〜
竹生島⑥へ続く。




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