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壊死性筋膜炎との診断を受けるまでの流れ

時系列で記します。



予兆:2023年12月31日20時

ことの発端は大みそかの夜。
大掃除をしていた時、右足の甲に痛みを感じましたが、気のせいで放置します。
その夜、寝る時もなんとなく足に違和感を感じ、痛みのせいで良く眠れません。
こんな冬に虫刺されかな?と思いクリームを塗ったり患部を冷やしたりします。

発熱:2024年1月1日4時

今度は発熱し始め、体温が38度位まで上がります。右足を見てみると赤く腫れ始めました。
風邪の症状がないため、発熱は足の腫れによるものと考えました。

右足がなんとなく赤く白いポツができていた


朝、旦那に発熱し足が痛いことを相談。
元旦は泊まりで義実家(県内)に行くことになっていましたが、とても私は移動などに耐えられる身体ではありません。
旦那は義実家に行くことをやめて病院に行こうと提案してくれました。

しかしながら私自身が足が腫れた→皮膚科に行くべきと思い込んでおり、
元旦の当番医に皮膚科がないから診てもらえないと頭から決めつけ、断ってしまいました。
後々、この判断を悔やむことになります。
結局旦那と息子だけで新年の挨拶に行って泊まらずに帰ってくるようにお願いしました。

その後もどんどん足は痛み、熱が上がります。
右足は痛く、歩く時はびっこを引いたり壁に必死に捕まってなんとかトイレに行ける程度。
旦那が帰ってきたら、明日を待たずにどこか病院に連れて行ってもらおうと考え始めるようになりました。

赤みが増し腫れてきた右足


16時過ぎ。
テレビから緊急地震速報が流れます。
能登地方大変だなぁ…と思ったのですが
16:10、私のスマホも大きな音で鳴り始めます。
私の住んでいる地域でも震度5弱を観測しました。

不運は重なるもので、この地震の影響で旦那はすぐに勤務先へ出社しなければならなくなりました。

※補足※
旦那は特定以上の震度で即出社する会社に勤めています。厳密に言うと私も同じ職場ですが、さすがに具合が悪いので出社不可の判断をしました。

結局旦那が帰宅したのが23時。
病院は諦めて寝ようかと思ったのですが、相変わらず眠りにつけない程の痛みです。

限界:2024年1月1日23時30分

さすがに限界だと思い、救急夜間外来をおこなっているA病院に電話をかけ、すぐに向かうことに決めました。
6歳の息子も年末年始の夜ふかしの影響でまだ起きており、「僕もついていく!」との返答。
地震が来た後だったこともあり、一人置いておくのも心配なので結局3人で向かいました。

A病院へ:2024年1月2日0時

日付が1月2日に変わる頃、A病院へ到着。
血液検査や患部のMRIを撮りました。

A病院到着時には足の色が変わり始める

実は1年前にA病院で子宮のポリープを切除する手術をしており、その時の私のデータが残っていて「今回は腎臓の値が異常」とすぐに判断されました。
また血圧が低下しており、通常なら上120はあるところ80位しか無いのも問題視されました。

最終的に医師からは
「ここA病院では救急で身体を総合的に診る医師はいるが、形成外科の専門医がいない。B病院なら緊急で対応できる形成外科医がいるので、B病院へ受け入れの依頼をしている。」
との説明を受けました。

さすがに息子は待合室の長椅子で寝てしまいましたが、病院の計らいで横の空いているベットに寝かせてくれました。

B病院まで自家用車で行くのかと思いきや、
「救急車で医師同乗で向かいます」
と告げられ、いよいよ事の重大さを自覚し始めます。

B病院へ:2024年1月2日4時

朝4時頃、B病院へ到着。
医師は院内待機ではなく緊急で出てきて下さったそうです。
この時医師から言われた言葉が、例の「あと半日遅ければ手遅れでした」という言葉です。

この瞬間から治療と入院生活が始まりました。


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