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一音のために生きる、ということ。『故郷の星が映る海』について。

 緋田美琴はファン感謝祭の前に、七草にちかにこう問うた。
 一音のために生きられる? と。

 この発言の詳細はSHHisのファン感謝祭編を読んでもらうとして、普通に生きていると『一音のために生き』た結果のコンテンツに出会うことがないと思う。
 ぼくはこの前見つけた。共有する。

 ぼくはこれを知った時、絶叫した。脳内で数々の要素がバチバチと火花をちらしながらつながったからだ。
 こんな気づかれるかどうかもわからないバックのメロディを数ヶ所だけ変更するこだわり。これに意味がないわけがない。


まぁ聞け

 東方紺珠伝の6面道中曲、故郷の星が映る海のトリビアじみた指摘の動画だ。なるほど確かに裏のメロディが多少違うようだ。

 じゃあなぜ違うのか。
 これはミスじゃない。だってこれが正としてリリースされたのだから。
 であればなにか理由があるはずだ。違うんだ、面白いねで立ち止まっていい場所じゃない。その先へ行くべきだ。

 ちなみに、音楽CD(燕石博物誌)版の『故郷の星が映る海』は、1周目しかない
 つまり、これはゲーム版だけの違いということだ。

 であれば、このメロディの違う部分はゲーム版にしかない要素を表現しているに違いない。
 ゲームにしかない要素、それはキャラクター(自機、敵)と世界(月、海)だ。

表現意図の推測① 曲タイトルから

 『故郷の星が映る海』はダブルミーニングのタイトルであることがよく知られている。Youtubeのコメント欄にも書き散らされているくらいだから説明は簡単に済ませる。

 東方紺珠伝の自機は人間である霊夢、魔理沙、早苗と、月兎である鈴仙だ。
 『故郷の星が映る海』は6面道中で流れるテーマだが、主人公たちは夢をくぐり抜けて月へと到達している。今、月にいるのだ。
 そして、そこには海があった。
 人間たちにとっては、海が『故郷の星』たる地球が『映る海』にいる。
 しかし、鈴仙は月が『故郷』だ。その海は『星』を照り返している。

 つまり、自機によってタイトルの意味が変わってくるね、というダブルミーニングが主張されている。
 ただぼくは、それに加えてこのタイトルこそがこの微細な違いを表現しているんだと思っている。

 波の音がそこかしこに入ることを踏まえても、海にいることを強く意識させようとしていると思う。今主人公たちがいるのは海の上で、海は星々を反射している。
 1周目と2周目で、主人公たちの実体の世界と反射された世界を表現しているのではないかと思う。そしてそこでメロディが違うのは、反射の世界にはなく、実体の世界にしかないものを表現しようとしているのではないか。

 音楽CD(燕石博物誌)版の『故郷の星が映る海』を聞いてみると、1周目のみが採用されている。つまり、1周目が反射の世界。そこにはキャラクターは存在せず、であれば彼女らの意思も存在しない。

 なお、燕石とは「紛い物、本物に似ているだけの偽物を意味する言葉」らしい。であればなおのこと、1周目は反射の世界、海に映った世界を表現しているのだろう。

 じゃあ、2周目:実体の世界が表現しようとしたものとは、実体の彼女らの抱えているものなのではないか?


表現意図の推測② ボスキャラクターの設定から

 表現意図①を踏まえると、キャラクターの意思や目的あたりがこの変化を生んだのではないかと思う。言ってしまえば、2周目のメロディこそが純狐そのものを表現しているんだと思っている。

 この面のボスキャラクター――純狐というが、こいつは東方紺珠伝のラスボスだ。
 純狐の能力は、純化する程度の能力。復讐に燃えていた彼女はその憎しみを純化し、憎しみの概念そのものとなった。
 そして月の都の支配者に復讐するため、長いこと月の都に嫌がらせをし続けているらしい。ゲームをプレイするとわかるが、完全に気狂いのそれだ。

 狂気。このゲームにおいて月は狂気の象徴と位置づけられている。
 最高難易度の名称もLunatic――月のようなと訳されそうな字面だが、気狂いという意味だ。

 燕石博物誌及び1周目:海に反射した世界には、純狐は存在しない。
 2周目の跳ねる音こそが純狐を、その憎しみ、狂気を表現しているんじゃないか。


一音のために生きる、ということ。

 ここまで読んでもらったのはすべてぼくの妄想にすぎない。
 だが、世の中にはたかだか5分弱の曲の数ヶ所の音が違うだけでこれほど考え込む人間がいるということはわかってもらえたと思う。

 一音のために生きるというのは、こだわるということだ。
 正直神主がここまで考えてこの曲にこのような違いを作ったのかなんてわからないし、どのような意図を込めたのかわからない。

 それは緋田美琴にとっても同じことで、自分がどれだけ表現にこだわっても観客に伝わるかどうかはわからない。
 でも、その上でにちかに問うたのだ。

 表現に対して、どれだけ意味が込められるのか。どこまでこだわれるか。

 もし創作者、表現者の人々がこれだけこだわっているのであれば、受け手もそれを理解したいですよね。
 でもこういうのは創作者、表現者の方に解説させてしまってはダメだと思う。それは、解釈の余地がなくなるから。
 正解が出てしまうとそれしかなくなる。みんな考えるのをやめるから。
 みんなが考えるのをやめると、みんなの興味も薄れる。
 だからぼくは設定資料集ってあんまり好きじゃないんです。それでなおさら謎が深まるならいいんですけど、多くの場合そこで終わりだから。


 みなさんはどうですか。
 物事についてちゃんと考えていますか。
 幻想に対して真摯に向き合っていますか?

 たとえば、上ふたつの疑問文の末尾が句点とクエスチョンになっていることの意味を考えましたか。「ふたつ」を「2つ」「二つ」と表記しなかった意図に思いを巡らせましたか。
 ぼくの文章なんかに真摯に向き合う必要なんてないので、「たとえば」はあくまで例として。

 表現について、どれだけ真摯でいますか。
 表現するとき、どれだけ自分のアウトプットに対してこだわっていますか。




 ずいぶん話が逸れたな。

 東方のBGMはゲーム中で聞くのもいいけど、こうしてじっくり聞いても味があっていいよね、という話と……
 他人の表現をどれだけ真摯に受け止められますか。意味を考えられますか、って話と……
 アウトプット(文章、演技など)なんて誰でも出来るけど、そこにどれだけ意味を込められますか、みたいな話を、緋田美琴を通してしたかった。

 伝わりましたか?


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