欠ける、繋がる、落ちる。

注意:本noteは漫画「VRおじさんの初恋」に関するレビューです。
大きく内容に触れる部分があります。

「VRおじさんの初恋」(以下、本作と称する)は、
中年の男性二人によるVRの世界を通した恋愛をテーマとして取り扱った漫画だ。

ロスジェネ世代のおじさんが 少女の体を手に入れたら
ピュアな初恋が発生したという 地獄のような話ですが
誰の得にもならないことでしか 描けないものがあると信じて
作った物語です。 よろしくお願いします

とは作者である暴力とも子氏のコメントだが、地獄のようなと評する誰かにとっては受け入れがたい価値観、もう一方では救済とも言える優しさを含む恋愛表現。二つの反する評価の差異について、登場人物であるナオキとホナミの恋を中心に考えていこうと思う。

なぜVRを舞台としているのか?
人間が生まれ肉体の器に収まる限り、他者からの評価というものには自ずとバイアスが掛かる。これは容易に払しょくできるものではないし、過去に比べれば軽くなったとはいえ、まだ現代でも圧力は強い。
性別・年齢・職業・収入etc、これらは人間が社会を形成するにあたって、その人物が自分たちの共同体にとってのどのような利害をもたらすかを判別するために用いられる、本能に根差した差別的な評価項目だ。
そしてそれを本人が知覚することは、生きやすさ・生きづらさと直結しながら自己承認の可否や人格として形成される。

VRの世界ではそれに比べると、ある程度の自由な選択が与えられる。
最も大きな要素では性別や容姿だ。
自分のなりたい姿、なりたい性を選択できること。
本作では、ナオキ(不況や格差といった不幸の波に直面しながらも救済措置を受けられなかったロスジェネ世代として描かれる男性)が少女というアバターを手に入れる表現として出てくる。

だが、自ら望む姿を手にしてもナオキは孤独だ。
自分が生きていても良い世界というのは、そのまま幸福な世界を意味しない。

言い換えるならば、ロスジェネ世代に加え様々な要因・生まれてからの環境の淘汰圧によってあまりに傷つきすぎた男性が、少女というアバターを手にすることで、ようやく他人と触れあい傷つくことが可能になる、すなわち恋ができるようになる。
「VRおじさんの初恋」とはそのような始まりを持つ物語なのではないだろうか?

恋とは、他人と癒着する際に生まれる傷
他者と交流することを苦痛と感じる彼の元に突如として現れるのが、
社会の成功者であり人生を謳歌した人物・ホナミだ。彼もまた同じく女性型のアバターを手にしている。
二人がそれぞれ女性アバターを選びながらも、差がみられる。
作中のナオキのセリフ

女子だけはただただいつも楽しそうだった 隣で俺がいじめられていても
明日 世界が滅ぶとしても女子ってあんな感じなんだろうな
そういう連中がいるって思うとギリギリ絶望せずにいられたんだよ

そして、ホナミが女性アバターに改変を加え、肌を過度にさらした姿を取りながら

露出の高い服好きです!! 着ると元気が出ます!!
自分の人生を維持したままで 心のどこかでなりたかった
自分の姿で生きられる場所

と発言するスタンスに顕著だ。
ナオキは自らの心が生きられるよう、ネガティブから逃れるように女性アバターを手にし、
そしてホナミは自らの人生で得られなかったポジティブのために女性アバターを手にする。
コミュニケーションの立ち位置も同様に、ナオキはホナミの登場からずっとと、そのあけすけな好意の示し方や積極的な態度によって踏み込まれていく側として描かれる。

男性の姿ではなく、憧れの少女の姿を手にしたゆえに拒絶する力は弱まってしまい、自らが孤独であるという悲哀の態度を示してしまうナオキ。
ただ純然と楽しもうと思っていたVRの世界で、あまりにも現実そのものとして孤独の影をさすナオキの在り方に魅了されるホナミ。
両者は互いに持ち得ないものに惹かれて好意を形成していく。

しかし、好意で満たされるということは、一度は空いていた孤独という虚がふたたび開く恐れを抱える事でもある。
現実でもVRでも孤独を感じていたナオキは、一度得てしまった安らぎ・ホナミなしに居ることに耐えられなくなり、また別の理由でホナミも孤独を恐れることになる。
こうして自らを作っていた形が他人の価値観によって変容され、それが離れがたいほどに同化してしまうこと。
仮に引きはがされてしまえば以前の自分に戻れないような深い孤独の傷跡を抱えることが、恋の査証ではないかと思うのだ。

我々の心に投影されるもの
ではこの恋愛の美しさを表現しつつも、本作はなぜ作者によって「地獄のような話」と形容されてしまうのだろうか。
それは誰に対する予防線なのだろうか。

中年の男性同士が恋をしてはいけないのか?汚い側面は見せてはいけないのか?現実と虚構の二軸で一方に拠るのは危険なのだろうか?少女としてのアバターを崇拝してはいけないのか?ネカマは悪か?痴女は悪か?趣味に心血注いで生活を疎かにしてはいけないのか?心配から隣人に結果として無遠慮な声をかけるのは駄目なのか?ぼっちは否定されるのか?皆で楽しくできることだけが良いコミュニケーションなのか?自己顕示は悪いことか?独り身でいるのは心配されることか?おじさんが一人で海水浴に行くのは世間体が悪いか?VRおばさんが末恋をしてはいけないのか?恋はしなくてはいけないのか?

すべてはノーだ。
「VRおじさんの初恋」が伝えるメッセージが伝わるチャンネルは、百合でも、恋愛でも、ロスジェネ世代だけでも、おじさんだけでも、VRの舞台だけでもない。

これはどんな出自を持つ人間でも、周りの無理解や差別に苦しむ人でも、たとえ一度は傷ついて立ち止まることがあっても、人生を諦めそうになっても、それでもどうか。
人の救済は出会い頭にあるのだから、それを見つけるまでは善く生きて欲しい。
本作の優しさは、そのようなメッセージを発しているように思えるのだ。

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