私的国語辞典~二文字言葉とその例文~ セレクション38『黴(かび)』
セレクション38『黴(かび)』
明け方までしこたま飲んで、目が覚めた時には、
――我が愛するコンドミニアムが一面真っ白に変わり果てていた。
「なんだ、こりゃ」
俺は二日酔いでズキズキと痛む頭を拳で軽く殴りながら、のっそりと起き上がって、そして我が愛する水玉のシーツから真っ白な何かが舞い上がり、俺を激しくむせさせた。
「ったくちくしょ、天井裏の埃でも落ちてきたんか?!」
俺は突然激しい怒りを覚え、ベッドから降りる。
途端に舞い上がる白い粉。
「うわっ、黴くせえ。なんだこれ」
俺は白い粉が鼻や口に出来るだけ入り込まないようにシャツで押さえながら、10cmは積もってるであろう白い粉の中を突き進む。
とにかく窓を開ければ、白い粉も何とかできるかも知れない。
そんな一抹の希望を持ってようやくたどり着いた窓の向こう側を見て、俺は固まった。
「……なんだよおい。どうなってんだよこれ」
窓の外の抜けるような青空の下、
ロンドンの街は、全てが真っ白に染まっていた。
「……なんで夏に雪なんだよ。おかしいだろ」
ぽつりと呟いた自分の声に、さっきぼやいた自分の言葉が重なり、俺は嫌な予感を覚えた。
慌てて窓を開け、右手を窓枠に近づけると、白い粉を少量つかみ取り、粒をじっくりと観察してみると、
粒だと思っていたそれは、先端が綿のようにふさふさしているように見えた。
――嫌な予感が的中した。
「何でよ」
俺はその白い黴をのろのろと払い落とすと、ぼんやりと窓の外を眺める。
建物の合間から時折見える爆発のようなものは、黴が胞子を発散させているのだろうか。
「何でこんな」
ふと、窓の外が妙に静かなことに気がついた。
こんな状態なら、外はパニックになっていてもおかしくないのに。
「みんな死んじまえ、って叫んだけどよ」
また違う所で白い綿毛がぽん、と青空に広がった。人の居ない街に。
「やめてくれよ。俺だけこんな……」
俺は何もできず、ただ呆然と見続けていた。
註:この話は、2009年に急逝した栗本薫先生の『黴』のオマージュとなっています。
当時の彼女のSFは神懸かっていて、『グイン・サーガ』もそうですが、この作品の入った短篇集『時の石』は、今でもその内容を、見たこともない未来の風景と共に思い出します。
メメント・モリ。
この言葉がとても美しいと感じる方は、是非そちらもお読み下さいませ。
『黴(かーび)』
《「牙(かび)」と同語源》
有機物の上に生じる菌類またはその菌糸の集まり。糸状菌など、キノコを生じないものをさしていい、適当な温度と水分があれば無制限に成長を続け、至るところに発生する。《季 夏》「たらちねの母の御手なる―のもの/汀女」
(大辞林より引用)
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