春を待つ君を思うタイトル

100NOTE達成記念。『春を待つ君を想う』

100ノート達成記念に、私のお気に入りを一つアップします。

この作品は、ちょっと長いです。なので、お時間のあるときにでも――

――そうですね、コーヒーでも片手に読んでみてください。

では、どうぞ。



一.

会社を退職した次の日。市役所でのもろもろの手続きを終えて外に出てきた私は、取り立てて何をする予定もないまま、春一番に誘われるように南へ、左手に21世紀美術館を眺めながら県立図書館へと向かう道を歩いてみることにした。
時折ふっと流れていく穏やかな風に微笑み、ぽつぽつと見かけるふきのとうやつくしに春を感じながら、意識して普段よりもゆっくりと歩いていく。

少し歩いた頃、道は左に緩やかなカーブを描き、その先に歌劇座の立派な白い建物が見えてくる。この界隈には美術館や図書館には良く来ていたが、歌劇座――旧観光会館には結局一度も中に入ったことはなく、その建物に関する想い出も特にはない。
しかし何故か妙に目に付くその建物に、私は不意に妻の言葉を思い出した。


――私ね、この時期が一番好きなの。春を目の前にして、いろいろなものが目覚めて、そしてゆっくりと気持ちを高めていくような気がして――。
ねえ。あなたもそう思わない?


――あの時、私は何と答えただろう。
そう思う、と言ってやれただろうか。
それとも、曖昧に生返事しただけだったろうか。

あれから10年しか経ってないのに、
妻の言葉は鮮明に覚えているのに、
それだけがどうしても思い出せずにいる。

私はここ最近になって頻繁に感じるようになったもどかしさを誤魔化すように、ゆっくりと空を見上げる。快晴の透き通った青空に、ぽつりと浮かんだ白い雲が東へ、東へとゆっくり流れていく。

風に、雲が流されていく。
雲の意思など関係なしに、ただ流されていく。

まるで、数日前までの私のように。 


(作品提供 nanacoさん)



緩やかに左手へと曲がっていくカーブの途中、右手に市庁舎の南分室が見え始めた頃、正面にぽつりと病院らしき建物が在るのに気づく。
看板を見る限り、どうやら内科医院らしい。
少なくとも、私にはこれまで何の縁も無かった類の病院である。

――そう言えば。
私が病院に最後に行ったのも、やはり10年前だった。


もちろん私ではない。妻だった。
ちょうど私が今立っている地点から、21世紀美術館を挟んだ向かい側――そう、石浦神社の前の通りで、10年前の2月のある日、妻が通り魔に襲われ、緊急病院に搬送されたのだ。
ちょうどその頃、私は仕事で各店舗を回っていて、まだ携帯電話も持っていなかったために知らせを受けるのが遅れてしまい――
――そして、慌てて向かった病院で案内されたのは、冷たくなった妻が眠る霊安室だった。

それ以来、病院には行ったことがない。
行く気にもならない。


二.

ふと気がつくと、左手の前方に真新しい日本家屋が見えてくる。
加賀石亭と言う名の料亭で、先日会社の皆がここで送別会を開いてくれたのだが、思ったよりもサービスが良かったので覚えていた。 


『――で、これからどうします?悠々自適生活突入ですか?』
ふと、送別会の最中に声を掛けてきた、二つ下の後輩の言葉を思い出す。
『馬鹿言え。私は仕事以外に何の趣味も持ってないんだぞ、悠々自適生活なんて言っても、何をすればよいやらさっぱり解からん』
私が苦笑いしながらそう答えると、後輩もまた笑って、
『確かに。でも、そういう先輩だったからこそ、生き残れた店舗が沢山在ったのも事実です』
そう言って姿勢を正し、お疲れ様でした、と頭を下げる後輩に、私は苦笑いしたままでそんなことはない、と返すしか出来なかった。

――そう。そんなことはないのだ。
しょせん私は喫茶店チェーンのプロダクトマネージャーにすぎなかった。
結局会社を支えているのは各店舗の店長であり、直接顧客と対応している店員の皆なのだ。
私ができる事など、たかが知れていた。

――妻のことすらよく知らずに生きていた、そんな程度の私など。 

あの日。
私は目の前に横たわる妻の亡骸を見つめながら、私の何が悪かったのか、と繰り返し繰り返し自分に問いかけていた。

『春が近くて、つい』

で妻が殺されてしまった私は、いったいなにが悪かったのか、と。

いつも生返事しか返さなかったのが悪かったのか。
子供を作ることが出来なかったのが悪かったのか。
仕事に没頭することで、逃げ出していた私が悪かったのか。
妻を正面から見ていなかった、私が悪かったのか――と。

それから私は、妻のことを考えるのを止めた。
子供が居なかったのを幸いにと家や車などの妻との想い出が遺るものを全て処分し、法事以外では妻の実家と連絡を取ることもなく、ただただ仕事に没頭する日々を送り続けた。

――そう。送り続けたのだ。
意思のないロボットのように。


『――単に、仕事に逃げていただけだからな。そんな私でも皆の役に立っていたのなら、それはそれで良かったとは思うがね』
私が自嘲気味にそう答えると、後輩はまたそう言うことを、と苦笑いしながら再び脚を崩す。
『今日まで先輩の突き抜けてきた道が在ったからこそ、若い者達が頑張れてるんです。だから先輩は、でーん、と胸を張ってれば良いんですよ』
そう言って笑いながら酒をあおる後輩に、私はそういうものか、と笑い返す。

しかし、やはり私は逃げていただけだ、と今でも思う。
だがそれは、妻を忘れたかったからではない。
むしろ、妻との想い出を大切にしたかったからだったのだ。


今でも妻のことを考えると、あの日のことで一つの疑問が浮かんでくる。

当時の我が家はここから東に数キロ離れた住宅街に在り、当時の妻は数キロの移動には基本車を使っていた。つまり妻は2月の平日の昼間に、わざわざ車も使わずにこの近辺に訪れていたことになる。
しかも、霊安室に眠っていた妻は、普段見ていた彼女よりもずっと美しかった。鈍感な私ですらはっきりと判るくらいに、彼女はめかし込んでいたのだ。

何故妻はあの日、あんな所を歩いていたのか。
いったいどうして、あんなにめかし込んでいたのか。


――そう。
私は、妻を疑いたくなかったのだ。
妻が不貞を働いていたのではないか、などと疑いたくなかった。
だから、妻のことを考えるのを止めたのだ。 

――だから、止めたのだ。


三.

料亭を横目に見ながら緩やかなカーブを過ぎると、やがて左手に私が好きな建物が見えてくる。

旧横山邸。
明治時代に建てられた江戸と明治の文化を併せ持つこの建物が、私は昔から大好きだった。

あまりに好きだからか、見るたびに、私の中の仕事の虫が疼いてたまらなくなる。もしこの建物をリファインして店舗に出来たとしたら、私ならどのようなコンセプトのもとで作り上げるだろうか、などとつい思いを馳せてしまうのだ。

「……だがもう、何の意味もないけどな」
私は苦笑いとともにそうつぶやくと、何とはなしに右手へと目を向ける。
少し先、歌劇座の手前にふるさと偉人館があり、その更に手前――ちょうど私の目の前には、まっすぐに南へと伸びる一方通行の狭い道路が見える。
「せっかくだ。こっちに行ってみるか」

自分にとって、何の意味もない選択肢。
何となく思いつきで考えた冗談だったが、それはそれで面白い気がして、私は道をわたってその細い道に入り込んでみる。
住所表記は、下本多町五番丁。
加賀藩の老臣、本多政重公の下屋敷が在った事から名付けられたこの界隈は、隣を走る本多通の向こう側と比べれば比較的新しい道路や建物も在り、当然道を歩いていれば、昔ながらの武家屋敷とそれらの建築物が一時に視界に入る事になる。

無論、このような光景は、特段に珍しいものではない。
特にこの金沢の街中であれば、それこそ至る所でこう言った光景を見つけることができるだろう。

だが、何故か今の私には、この光景がとても新鮮に感じていた。
当然のように昔ながらのものが存在し、当然のように新しいものがそこに在って、互いを排斥することなく、むしろ調和しているといえるほどに共存している。
これが、日本という国なのだ、と。


そんな時だった。
ふと、視界の隅に何か懐かしさを感じる物を見つけた気がして、私は右手の古い家屋へと目を向ける。

それは、一組のマグカップだった。
古い家屋を手直しして始めたらしい喫茶店の、道路側の窓際にさらりと置かれた、何の変哲もないただのマグカップ。

――何故か。
何故か私は、そのマグカップから目が離せなくなっていた。
初見であるはずなのに何処か懐かしさを感じさせるその形状と、そのちぐはぐなまでに大きさの違う極端さ。
そして何より、その側面に描かれていた模様に強く惹かれていた。
淡い若草色のグラデーションに、柔らかな陽の光が差し込んでいるような白い筋が斜めに走っているという、ただそれだけのシンプルな模様。

それが、
――それが何故か、私の中の古い記憶をくすぐって仕方なかったのだ。 

遥か昔に置いてきた、遠い遠い記憶を。

「――入ってみるか」
どうせ予定のある道行きではないのだ、と自分に言い聞かせながら、私はその喫茶店の扉を開き、ドアベルのからん、という軽やかな音とともに中に入る。

その店は全体的な雰囲気からみると、いわゆる『昔ながらの喫茶店』であった。4人が座れば満席になる程度のカウンターと、ゆったりしたソファを壁側に据えた4人用のテーブルが2席。
それらの家具は全て手入れが行き届いており、良い物を使っていると一目で解るチェアやテーブルが、年季を帯びて店内の落ち着いた雰囲気によくマッチしている。

それと特筆すべきは、カウンターの棚のレイアウトだ。各種グラスやカップに紛れて並べられている様々な九谷焼の作品たちが、この和洋折衷の雰囲気のなかで最も強く『和』を主張しており、それがこの喫茶店のコンセプトを明確にしているように見える。

(――引退したんじゃないのか、お前は)
私は不意に我に返り、ふっ、と苦く笑う。
「いい加減、切り替えないといかんな」
そう私がつぶやいたとき、タイミングよくきい、とドアが開く音がし、私の目は自然とそちらへ向けられる。

正直に言うと、『彼女』の姿に驚きを隠せなかった。
ドアの向こうから顔を出したのは、若い金髪の女性だったからだ。

白いブラウスに店内と同じシックなブラウンのエプロンを着けたその女性は、ニコニコと笑いながらカウンターの中へと入ってくると、
「アア、イラッシャマセエ」
とたどたどしい日本語で私に告げてから、笑顔のままでカウンターの中央のスツールに手を差し出してくる。
「あ、ああ。ありがとう」
客として入ったことをすっかり失念していた私は一瞬狼狽えたが、すぐに我に返るとコートを脱ぎ、招かれたカウンタースツールに腰掛ける。
「ナ、ナニ、ニシマ――」
『失礼ですが、英語のほうが良ければ英語で』
たどたどしい日本語にじれったくなった私が英語で語りかけると、女性は少しホッとした様子でソーリー、と返してくる。
『ごめんなさい。もう10年以上ここで暮らしてるのに、相変わらずカツゼツが悪くて』
女性が苦笑いしつつ、手に持ったメニューをはい、と差し出してくる。
敢えて日本語で『滑舌』と言ったのは、多分彼女の良い人から頻繁に指摘されているからなのだろう。
『10年ですか、長いですね』
私はメニューを受け取りながら、手短にそれだけ答える。

先日まで仕事で海外ともやり取りしていたので英語はさほど抵抗なく話せるのだが、この場合――若い、しかも美人の外人女性と二人きりで、仕事抜きで話をするなどというシチュエーションは一度も経験したことがない。
そして私はイレギュラーな状況下で英語をペラペラ話せるほど語学は堪能ではないので、なかなかするりと思ったとおりの言葉が出てこない。
(仕事なら、もっと饒舌なんだがな)
私は内心で苦笑いしつつ受け取ったメニューを眺めて、ブレンドを一つ注文した。

(作品協力 『春眠なかむら歌乃さん)

四.

女性はイエス、と微笑むと、手元から小皿に乗せた焼き菓子をすい、と差し出してきた。
『少しお待ちくださいね。――これ、よろしければどうぞ』
そう言って身体をコーヒーミルへと向けた女性にありがとう、と返すと、私は目の前に差し出された小皿をそっと覗きこむ。
綺麗に焼かれたクッキーとマドレーヌが乗せられたその小皿は、新雪のような純白の下地に片隅に雪うさぎの絵が焼かれているシンプルなもので、恐らくはこれもまた九谷焼で作られたものだろうと思われた。
『大丈夫ですよ、私の手作りですが、変なものは入ってませんから』
豆を挽きながらくすり、と笑う彼女に、私は苦笑いを返しつつ、クッキーを一枚摘み取る。
『いや、この皿も九谷焼なのかな、と思いまして』
私がそう言ってクッキーを口の中に放り込むと、豆を挽く彼女がああ、と納得したような声を上げる。
『ええ、これも他と同じで、九谷焼なんです。――と言っても、それは絵付けしただけなんですけどね』
サイフォンを用意しながら笑みを浮かべる彼女の言葉に、私は改めて店内の焼き物を見回す。

カウンターの向こう側に並べられた九谷焼らしい皿やボトル。
ソファー席の近くに並べられた壷。

そしてあの窓際のマグカップ。

どれも素人にしてはよく出来たものばかりで、私は本心から感心して彼女に目を戻した。
『――と言うことは、これは全て貴女が?』
私がそう問いかけると、珈琲のセットを完了した彼女がノー、と笑う。
『いくつかは違いますよ。例えば――ほら、あの窓際のマグカップがそうですね』

彼女の口からマグカップ、という単語が出てきたとき、
何故か私の心臓がどきり、とひときわ大きく動いた。

『――あのマグカップは、何故あそこに?』
緊張を悟られないようにできるだけ平静を装って問いかけると、彼女は一瞬だけ不思議そうな表情を浮かべた後、ようやく質問の意味が解った、とばかりに微笑み、そのままカウンターから出て窓際のマグカップに近づいた。
『このマグカップは、私がこの店を始めたきっかけなんですよ』
『きっかけ?』
私がそう問うと、彼女はイエス、と答えながらカウンターへと戻ってきて、そして私の目の前に二つのマグカップをそっと置いて、そしてゆっくりと話し始めた。

五.

『10年ほど前。『日本らしさ』を知るために、私は各地を観光して回ってました』
そう言った彼女は、何かを思い出すように天井を見上げると、手を広げて指を一本ずつ折り始める。
『東京、京都、大阪、名古屋、博多、秋田、北海道――うん、色んな所を回ったんです。でもね、ほら、日本の人って、『ガイジン』に弱いでしょ?だから何処に行っても『よそ者』扱いで、つまんなくて』
解ります?と問う彼女に、私は苦笑い混じりにええ、と答える。
『で、最後に来たのが、この金沢でした。まあどうせここも同じだろう、なんて思いながら訪れた金沢城公園で、『先生』と会ったんです』
『『先生』――ですか』
私がマグカップのグラデーションを見つめながら何とはなしにつぶやくと、私の視界の隅で彼女が笑い、サイフォンをちらり、と見てから、棚に置かれたカップを取るために後ろを向いた。
『綺麗な、いかにも日本人女性らしい方でした。本人は謙遜してましたけどね』
そう言って再び振り向いた彼女は、私の眼の前に在るマグカップを優しく見つめて、
『先生は私が観光に来ていると知ると、面白いところがあるから、といって私を半ば強引に、近所にあった九谷焼の店へと連れ込んだんです』
『そりゃまた、強引だね』
私が呆れ半分で返事をすると、彼女はコーヒーを注いだカップを私の前に差し出しながら、
『店に入った時は、もうダメだ、きっと高額な商品を売りつけられるんだ、と、正直絶望しかけましたね』
と、クスクスと笑う。
『ってことは、違ったんですね』
『ええ。そこの店って九谷焼の絵付け体験ができるところで、私はそこで初めて『陶芸』を体験したんです』 


絵付け体験。
九谷焼をもっと知ってもらいたい、と始められたその体験教室は、誰もが手軽に『陶芸』を楽しめることから金沢市内でもいくつかの店舗で実施されており、私も妻に誘われて何回か行ったことがあった。

『懐かしいな。私も昔、妻に誘われて何回か通ってました』
私がそう答えると、彼女がぱあっと顔を明るくさせて、
『あら!それは楽しかったでしょうね』
と嬉しそうに問いかけられ、私は苦笑いを返すしか出来ない。
『いや、私はさほど興味はなくてね。結局すぐに通うのをやめまして。
――妻はどうだったかな。もう10年も前に亡くなってますし、良く覚えてませんね』
私がそう答えると、彼女は少しがっかりした表情を見せてから、ふと何かに気がついたかのように首を傾げると、カウンターの下に身体を潜り込ませる。
彼女の姿が消えたカウンターには、コーヒーの香りとがさごそ、という何かを探す音、そして彼女の声。

私はその瞬間、この小さな喫茶店のカウンターに、妙な安らぎを感じていたように思う。

そして、その理由も――また。


『その体験が終わってから、先生は私を近くの料理屋さんに連れて行ってくれて、いろいろ話をしました。そして『日本らしさ』を知るために日本に来たのに、表面的なものしか知ることが出来ないままにもうすぐ帰国することが悔しいと私が愚痴ると、先生はうーん、と考えこんでから、こう質問してきたんです』


「貴女は好きな人のことを知ろうとするとき、突然その人のところに押しかけて、いろいろ質問をぶつけるかしら?」
「え?いえ、そんなことはしません。意味ないもの」
「でしょ?――良い?日本を知るっていうのは、日本人を知るというのと同じ意味を持つの。アメリカを知るためにはアメリカ人を知らなくてはならないようにね」
「日本人、を――」
「そう。そして、人を知るために大切なことが二つある」
「二つ?」
「ええ。一つは、長い時間の共有。そしてもう一つは――」
「もう一つ、は?」


「――どんな時でも、相手を信じること」

思わず口から出たその言葉に、彼女が慌てて起き上がると、カウンターに身を乗り出し、目を見開いて私を見つめた。
『そうです、先生はそう言ってました――でも、どうして?』
信じられない、と言わんばかりの口調で問いかけてくる彼女に返事を返す事もできず、私は二組のマグカップのうち、大きい方を手に取ってひっくり返す。


――在った。
マグカップの底面、左下隅に。


たった一文字。

『響』

――と。

六.

『――ちなみに、その先生は、今はどうされてるのですか?』
抑えようとも抑えきれないほどに震える声。

おそらく目の前の女性は何かを察するだろうが、
この感情を抑えきれるほど私は強い人間ではない。

『え、ええ。料理屋さんを出た後、私にそのマグカップをプレゼントしてくれて、その場で別れました。その後いろいろあって、九谷焼を真剣にやってみたいと思い切ってこの街に帰ってきたんですけど、そのきっかけをくれた彼女に何とか連絡を取りたいといろいろ探したんですが、結局何も解らなくて――』
『その方のお名前は』
せきを切ったように話し続ける彼女を遮るように私が尋ねると、彼女は我に返ったような表情を見せた後、再びカウンターの下へと潜り込んで、木で出来た箱を取り出し、カウンターの上にとん、と乗せる。
『これがそのマグカップの入っていた箱です。側面に作品名と、作者の氏名が書かれています』
おそらく彼女も運命的な何かを感じたのだろう。その口調は真剣で、かつ深刻そうに聞こえた。
『ありがとう。ちょっと拝見』
私はそう言って箱に向けて軽く礼をすると、そっと手に取って側面を眺める。

そこには、久しぶりに見た懐かしい名前が在った。


――妻の名前が。


『作品名は『春を待つあなたを想う』
彼女の声が、少し涙混じりになっているように聞こえる。

そうか。彼女は探していたんだった。
妻のことを。

『二つのマグカップを柄が揃うように並べると、小さな方のマグカップが大きな方のマグカップに寄り添っているように見えることから、この名を名付けたんだ――と、プレゼントしてくださった時に先生に――いえ、貴方の奥様に教わりました』
「春を待つ、あなたを想う、――か」
私がそう答えた直後に、彼女はまるで少女のようにしくしくと泣き始める。

無理もないだろう。
探していた恩師が実は既に亡くなっていて、礼も言えないどころか、もう会うことすら出来ないのだから。

そして私はようやく、全てを理解した。
おそらくその日、妻は美術鑑賞のためにこの界隈を訪れ、そしてこの眼の前の外人女性と出会い、楽しいひと時を過ごして別れ、そして通り魔に襲われたのだ。

「――どんな時でも、相手を信じること、だったよな」
私がぽつりと漏らした呟きが問いかけだと勘違いしたのか、泣きじゃくる彼女がこくり、と頷くので、私は苦笑いとともに違うんだ、と返した。
『今のは君にじゃない。ここに居る妻に言ったんだ』
そう言って私が目を向けたのは、小さい方のマグカップ。
大きなマグカップを優しく見上げる、小さなマグカップにだった。

「――すまなかったな、響子。信じてやれなくて」
久しぶりに口にした妻の名前が、私の中の懐かしい記憶を一気に呼び起こす。

一緒に泣いて、喧嘩もし、一緒に笑ったあの懐かしい日々。
仕事にかまけて顔すらまともに見ることのなかった最後の数年間も、妻の優しさが無ければあり得なかっただろうと今なら思える。

『――明日』
しばらくの沈黙の後。
私がぽつりと呟くと、彼女がカウンター越しに顔を上げ、真っ赤にした目で見つめ返してきた。
『明日、妻の墓参りに行くつもりです』
私がそう言うと、彼女は唇をきゅっと噛み締め、微かに頷く。

――ああ。
これもまた、何かの縁なのだろう。

喫茶店に全てを賭けてきた私が、喫茶店で妻の真実を知る、というのも。
九谷焼に全てを賭けてきた女性が、九谷焼によって恩師の真実を知った、というのも。

『――一緒に来られますか?』
私がそう思い切って尋ね、彼女がイエス、と即答したそのとき、
小さなマグカップの縁に窓から差し込んできた柔らかな陽の光が反射して、
まるで何かのメッセージを発したかのように、一瞬だけきらり、と瞬いた。

(了)


【参考ホームページ】

・金沢歌劇座:
 http://www.kagekiza.gr.jp/
・野村右園堂:
 http://www.uendo.jp/aji.html
・鏑木商舗:
 http://kaburaki.jp/
・金沢石亭:
 http://www.asadaya.co.jp/sekitei/
・城南荘(旧横山邸):
 http://isitabi.aikotoba.jp/kanazawa/jyounan.html
・Wikipedia『九谷焼』:
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E8%B0%B7%E7%84%BC
・Google Maps:
 https://maps.google.co.jp/


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