私的国語辞典~二文字言葉とその例文~ セレクション76『劇(げき)』
セレクション76『劇(げき)』(1082文字)
「皆さん、ちょっと待ってください」
親友であり名探偵でもある猪崎内閣が、乾杯を終えて今まさにワインを飲もうとしていた招待客全員を制止する。
「何だよおい、こっちはここに来てから半日間、水も飲んでないんだぞ」
招待客の一人であるカメラマンの小暮が激昂するも、猪崎は平然たる様子で自分のワイングラスを見つめている。
「やめてよ、まさかこれに毒でも入ってる、って言うの?」
同じく招待客の中野が金切り声を上げ、私も思わずグラスの中味を見つめる。
まさか。
まだ別荘に来たばかり、ミステリーで行けばほんの導入部じゃないか。
こんなところでいきなり毒殺って。
猪崎は私たちの疑念を受け流すかのようにワイングラスを高々と掲げると、全員に見えるようにグラスを私たちの方に向けた。
「ワインの香りに混じって、微かな異臭がします。これは恐らく、酢酸エチルです」
猪崎の言葉に招待客の一人、医師の田中が劇薬じゃないか、と叫び、慌てて全員が匂いを嗅ぐ様子を見せる。私もつられてグラスに鼻を近づけるが、なるほど確かにうっすらと果実臭がする気がする。
「恐らく全員のグラスに混入しているのでしょう。ここで一気に殺害するために」
猪崎の言葉に、全員が目を見開いて入口を見る。
全員の視線の先には、夕食を用意した給仕が立っていた。まだ二十歳にも満たない若い娘のようだった。
「あなたが入れたんですね、酢酸エチルを」
猪崎の問いに、給仕が無言のままうつむいている。
「恐らくあなたが、本当の招待主なんだろうと思いますよ。なんせ、メイド服が似合わない」
猪崎は苦笑いと共にポケットから小瓶を取り出し、口でコルクのふたを開け、ワインを中に注いだ。
いやちょっとまて。
「猪崎、まてよ」
私の声に、めんどくさそうな表情でこちらを向く猪崎。
「なんだよ。肝心な時に」
「肝心な時ってお前、おかしいだろこれ」
私のつっこみに、猪崎が更に顔をしかめる。
「なにがおかしいんだ?」
「だってさ、こう言う時って、普通順番に一人一人殺そうとしないか。なんでいきなり全員殺そうとするんだよ」
至極まっとうな私のつっこみだろう。
こんなところで全員死亡って、それで終わりじゃないか。
だが、しかし。
彼は呆れたような表情で、私を睨みつけた。
「何を言ってるんだい君は。ミステリーじゃあるまいし」
「は?」
「全員を無差別に殺害しようとする人間が、何故そんな手間をかける必要があるんだ?」
猪崎の的確な指摘が続く。
「そんな手間をかけるくらいなら、さっさと全員殺して、遺体を処分するのに時間をかけた方がずっと良いじゃないか」
お前は馬鹿か、と言わんばかりの口調に、私はなにも反論できなかった。
(1082文字)
『劇(げーき)』
[音]ゲキ(慣) [訓]はげしい[学習漢字]6年
1 物の働きや程度がはげしい。「劇症・劇毒・劇薬」
2 仕事がめまぐるしい。忙しい。「劇職/繁劇」
3 芝居。「劇場・劇団・劇的/演劇・歌劇・活劇・観劇・喜劇・惨劇・史劇・新劇・悲劇」
(大辞林より引用)
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