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証言が暴く〝死の行進〟の嘘・向井潤吉「四月九日の記録・バタアン半島総攻撃」~戦争画よ!教室でよみがえれ㉔


戦時中に描かれた日本の「戦争画」はその出自のため未だに「のけ者」扱いされ、その価値を語ることを憚られている。ならば、歴史教育の場から私が語ろうではないか。じつは「戦争画」は〝戦争〟を学ぶための教材の宝庫なのである。これは教室から「戦争画」をよみがえらせる取り組みである。
 目次
(1)戦争画とは何か?
(2)わたしが戦争画を語るわけ
(3)戦争画の鑑賞法
(4)戦争画を使った「戦争」の授業案
(5)「戦争画論争」から見えるもの
(6)戦争画による「戦争」の教材研究
(7)藤田嗣治とレオナール・フジタ

(6)証言が暴く〝死の行進〟の嘘・向井潤吉「四月九日の記録・バタアン半島総攻撃」ー戦争画で学ぶ「戦争」の教材研究⑥
 
  絵を見てみよう。

 まず、画面いっぱいに描かれた人の数に目を奪われる。そして、画面後方に描かれたジャングルには黒煙が上がっている。これを見るとここが戦場であることが理解できる。

 その夥しい数の人間をよく見ると、ただ雑然とそこに集まっているのではないことがわかる。この絵は縦に5分割されている。

 画面前から見ていく。まずは破壊された車等の残骸。次の捕虜となったアメリカ・フィリピン軍兵士はやや暗めの色で統一されて右から左へ歩いている(なぜフィリピン兵?と思った方はここフィリピンがアメリカの植民地であったことを思い出してほしい)。その次は銃を背負って歩く日本兵が今度は逆に左から右へ。その後方の鈴なりに見ている現地フィリピンの人々はやや白っぽい色調で表現されている。最後は黒煙が上がるジャングルの緑だ。
 
 戦場であることがわかるジャングルの黒煙と残骸を最前方と最後方に描き、そこに「人」に関連する3つのカテゴリーを挟み込んでいる。ユニークな画面構成だ。

 さらに、画面の中央やや左寄りには馬に乗っている将校らしき人がいる。そして、何より印象的なのは画面左側の車の上に立ってこの状況を俯瞰して見ている兵士の姿である。

 この絵のタイトルは『四月九日の記録 バタアン半島総攻撃』という。作者は向井潤吉。戦後は美しい古民家の絵のシリーズで人気があった画家である。

岩手県・滝沢市

 タイトルの「バタアン」という地名を聞いて気づいた人がいるかもしれない。そう、これは有名な「バターン死の行進」(一旦はこう書いておくが、この名付けが間違っていることは後述する)を描いているのである。先ほどの銃を持つ者が日本兵で持たない者が敵であったアメリカ兵とフィリピン兵である。

 では「バターン死の行進」とは何か?

 太平洋戦争開始直後、日本軍は12月23日にアメリカの植民地だったフィリピンへと進攻。破竹の勢いで首都・マニラを占領した。敗退したアメリカ軍はルソン島の最南端・バターン半島へ逃げ込む。なお米極東軍司令官であったマッカーサーはさらに南のコレヒドール島へ入ったが、日本軍の総攻撃前にオーストラリアへ逃亡している。

 その後、攻めあぐねた日本軍は第2次総攻撃をかけ、アメリカ軍は4月9日に降伏。この時に予想はるかに越える7万が捕虜となった(軍とともに山へ逃げ込んだ民間人は約4万人と言われている。ただし民間人はすぐに解放されている)。このために収容施設も食糧も足りないため、収容施設のあるオードネルへ行くためにサンフェルナンド駅までの約90キロを徒歩で歩かせることとなった。なお、サンフェルナンドからオードネルの最寄り駅・カバスは鉄道輸送だった。

 この間に戦傷、マラリア、体調不良等で命を落とした捕虜がいたために後に「死の行進」とされてしまったーというものである。当時、第14軍司令官・本間雅晴はこれを戦争犯罪とされてマニラ軍事裁判で有罪となり死刑判決を受けている。

 バターンでの捕虜輸送が「戦争犯罪」だというなら、そんな不名誉なことを作者・向井順吉はなぜ絵に描いたのだろうか?

 そもそも日本軍は国際法に乗っ取って捕虜をごく常識的に扱っただけである。当たり前に捕虜の輸送に従事しただけで、日本軍将兵は誰一人として自分たちがやったことを「戦争犯罪」などとは思っていない

 作者の向井も同じである。

 むしろ、あの強敵アメリカ軍を撃ち破った日本軍の強さを描きたかったにちがいない。左端の車の上に立つあの日本兵はそれを表現している。さらに言えば、これまで自分たち東洋人の上に立っていた欧米人を捕虜として輸送する日本兵の誇らしい姿を同じくあの日本兵を象徴として記録したかったのではないだろうか。同時に植民地とされているフィリピンの現地人の姿も絵の中に登場させているところに重大なポイントがある。

 無論、この捕虜を輸送するその途中で心身が弱っていて命を落としたアメリカ兵・フィリピン兵もいただろう。だがそれは日本兵が殺人を犯したということではない。これを「死の行進」なとどことさらに戦争犯罪化するのは間違っている。その根拠を上げてみよう。

米比軍第3師団・中隊長ゴンザレス氏の証言
「私たちの多くがマラリアや赤痢にかかっていた。私たちは病気だった。だからもし、私たちが健康であれば『死の行進』にはならなかった。私たちは若かった。フィリピン兵のほとんどが二○代だった。どんなに健康でも四月の約100キロの行進は苦痛ではあろうが、『死の行進』にはならなかったに違いない。また私たちは栄養失調でもあった。私たちは病気だったが、もし充分な食料が与えれらていれば『死の行進』にはならなかった」

(鷹沢のり子『バターン「死の行進」を歩く』(筑摩書房p21)

 健康である限りは常識の範囲内の輸送距離だったということになる。つまり、そもそも非常識で過酷な距離ではないのだ。その証拠にこの出典の著者・鷹沢のり子氏は「生の行進」というイベントで約100名の参加者とともに同じルート・同じ距離を歩いている。特別な訓練を受けているわけでもない現代の一般人も歩ける距離なのである。

 では、ゴンザレス氏が言う食料の問題はどうなのか?
 米比軍は12月末にバターン半島に逃げ込んで3月下旬に降伏したが、約3ヶ月間食糧不足の状態だった。これは1ヶ月分の食料しか用意できなかっ指揮官マッカーサーの失策である。対する日本軍も2月から食料を切り詰めている状態だった。日本軍兵士も同じように腹ペコだったのだ。つまり、食料問題の「罪」を日本軍にのみ被せるのはお門違いなのである。米兵はこんな歌を歌っていたという(なお「ダグ」とはダグラス・マッカーサーのこと)。

「防空壕から出てきなよ、ダグ。出てこいよ隠れ家から。フランクリンに送ってやれよ、うれしい便りを。おれの軍隊は飢え死にしそうだと」

(前掲書より)

 こんな証言もある。

 米兵ホーマー・マーチン大尉の証言
 バランカから再び歩き出した一行がアブカイの教会に着き礼拝場に宿泊。ここでフィリピン大学の先生と知り合う。道を隔てた反対側の露店で配給されたビニール袋に入ったご飯と八宝菜を皿にのせてフォークとスプーンで食べ、お湯を注文してインスタントコーヒーを飲んだ。
「熱いコーヒーも気分を落ち着かせ、やっと生き返った」

(前掲書p54~55)

 この証言のどこに食料問題があるというのだ?つまり金のある米兵はちゃんと食べているのである。

 前掲書の著者・鷹沢氏は「私が会った元兵士は「日本兵がせめて水さえ自由に充分に飲ませてくれていたら、死なずにすんだ捕虜がかなりいた」と言う」と書いている。ではこの水の問題はどうだろう?

「暑い四月に水が飲めないのは拷問を受けているようなものだ。日本兵はあまりにフィリピンの気候に無頓着だったのではないかと、彼は続けた」というが、警備している日本兵の側に立って考えてみよう。約9万人もいる捕虜全員に飲ませる水などないとすれば、抜け駆けを許すわけにはいかない。当然、一定の厳しさが必要になる。

 アリステオ・フェラーレンさん(当時25歳)は日本兵の目を盗んで掘り抜き井戸の水を「数回がぶがぶと飲んだ」と証言している。つまり、要領のいい者は飲んでいるのである。絵の右端には水を飲んでいる兵士の姿も描かれている。

 また、フェリッペ・マニンゴ中尉の証言では4月14日頃に「ほぼ一五〇人のアメリカ人とフィリピン人捕虜たちが水筒に水を入れるのを日本兵に許されました」という。ところがその捕虜めがけて射撃されて「ほとんどが死にました」という。マニンゴ大尉自身は「なぜ射殺されたのかわからない」と言っているのに著者・鷹沢氏は「日本兵たちが抹殺するのは、「行進」の足手まといになる捕虜たちだった」(同p89)と断定している。その理由は示されていない。

 許しているのに撃つとすれば、捕虜たちの逃亡や多勢による反攻も考えられるのだが・・・。ところでマニンゴ中尉は生き残っているのだから水筒に水を入れなかったということになる。この証言が怪しいのは、なぜマニンゴ中尉は水を入れなかったのだろう?という点である。自分も「死の行進」をしている当の本人なのに苦しくても水を我慢したのか?それとも自分の水筒に水がたっぷり入っていたのか?もしそうなら、なぜマニンゴ中尉だけが水筒に水が入っているのか?その理由が知りたい。こうなると「射殺され」たとやらも怪しい。

 最後に行き着いたオードネル収容所でのようすを見てみよう。

「週末の収容所の娯楽・七月一二日・午後五時」というプログラムには、二人三脚、ボールリレー、歌、ギターやハーモニカの演奏、カリンガ地方やビコール地方の踊り等々がある。これが「死の行進」をしてきた捕虜の収容所生活なのか?さすがに著者はこれでは悲惨とは言えなくなってしまうと思ってか「だが、プログラムの初めには、内容は記されていないが、「日本に対するわれわれの謝罪」という項目もふくまれている」(p124)と書いている。さらに第11グループでは「ハエとりコンテスト」を実施して優勝者には賞品が出ている。週の勝者にはネッスルの缶ミルクがもらえた。また家族からの差し入れでトランプのポーカー勝ち抜き戦、麻雀をする捕虜もいた。

(前掲書より)

 ずいぶんと至れり尽くせりの収容所ライフである。

 日本将兵の証言も見てみよう。

141連隊長・今井武夫大佐
「捕虜は数人の日本軍兵士に引率され、着のみ着のままの軽装で飯盒と炊事用具だけをぶら下げて、えんえんと続いていました。疲れれば道端に横たわり、争って木陰と水を求め、勝手に炊事を始めるなど、規律もなかったのですが、のん気といえばのん気なものでした。それを横目で見ながら進んでいるわれわれは、背嚢を背に、小銃を肩にした二十キロの完全装備で、隊伍を整えての行軍でした。正直言って、捕虜の自由な行動がうらやましかったぐらいでしたね」

(御田重宝『人間の記録バターン戦』徳間文庫p272~273)

 これのどこが「死の行進」なんだ?

 日本兵の方がよっぽど辛い。蛇足だがバターン攻略の中心になった第65旅団はリンガエン湾から上陸して約200キロを徒歩でバターンまで行軍してきている。その後に戦闘があり、さらに捕虜を引率して90キロを歩いているのである。日本軍兵士こそ「死の行進」ではないか・・・だが日本兵は生きている。

 つまり「バターン死の行進」という言葉は作られた嘘なのである。

 「死の行進」の真相を御田氏は次のように述べている。

「『マッカーサー回想記』によると、日本軍から脱出した三人の米兵が、ゲリラ隊に救出されて、潜水艦でオーストラリアのブリスベーンに輸送され、そこでマッカーサーに伝えたらしい。マッカーサーは口を極めて日本軍の蛮行をなじっているが、どうもマッカーサーの演出くさい。バターン半島から逃げ出した自分の行為をカムフラージュするために、ことさらあばき立てたという感じさえする。現在でもフィリピン国内にある戦争モニュメントには必ずその「死の行進」の姿が誇大にデザインされているが、マッカーサーの宣伝に、まんまと乗せられた格好である。部下を捨てて逃げた指揮官が、部下の遭った〝虐待〟を誇張するのは、いかにも芝居じみて見苦しい」

(御田前掲書p272)

 これが真相なのだろう。

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