補論・藤田嗣治が見た?西洋歴史画~戦争画よ!教室でよみがえれ㊶
戦時中に描かれた日本の「戦争画」はその出自のため未だに「のけ者」扱いされ、その価値を語ることを憚られている。ならば、歴史教育の場から私が語ろうではないか。じつは「戦争画」は〝戦争〟を学ぶための教材の宝庫なのである。これは教室から「戦争画」をよみがえらせる取り組みである。
目次
(1)戦争画とは何か?
(2)わたしが戦争画を語るわけ
(3)戦争画の鑑賞法
(4)戦争画を使った「戦争」の授業案
(5)「戦争画論争」から見えるもの
(6)戦争画で学ぶ「戦争」の教材研究
(7)藤田嗣治の〝戦争画〟を追って(「藤田嗣治とレオナール・フジタ」改題)
(補論)藤田嗣治が見た?西洋歴史画
戦争画についての連載も前回の40回目をもって終了となった。
ここで予定にはなかったが、藤田が『アッツ島玉砕』や『サイパン島同胞臣節全す』などのいわゆる〝玉砕図〟を描く上で参考にしたと言われている西洋の歴史画を紹介したい。
目次
(1)画家のインスピレーション
(2)『アッツ島玉砕』と西洋歴史画
(3)『サイパン島同胞臣節全す』と西洋歴史画
(4)歴史画の巨匠を生み出す
(1)画家のインスピレーション
画家は他作家の作品の構図やモチーフを参考にして描くということがよくある。
例えば、下は有名なマネ『草上の昼食』である。
次に下の銅版画を見て欲しい。右下隅の構図がそっくりである。
これはイタリアルネサンス期の銅版画でマルカントニオ・ライモンディ『パリスの審判』という。西洋美術史の教科書にはマネがこの絵から構図を取っていると解説されている。
また、マネは次の絵からインスピレーションを得ているという指摘もあるようだ。
16世紀初頭に描かれたティツィアーノ・ヴェッリオ『田園の奏楽』という作品だ。確かにモチーフはそのままである。
というわけで、画家たちは新しい主題や適切な構図のインスピレーションを歴史の中から〝発見〟している。
(2)『アッツ島玉砕』と西洋歴史画
これについては、藤田は以下の西洋歴史画を参考にしているのではないか、という指摘がある。
これはペーター・ラストマン『ミルティウス橋の戦い』である。312年に2人のローマ皇帝がそれぞれ軍を率いてローマ郊外のミルティウス橋で激突した戦闘場面だ。古代の剣と槍による肉弾戦。敵と味方の見分けがつかないほどの接近した状態での戦いである。
人と人が折り重なるように戦う場面は『アッツ島玉砕』とそっくりだ。
『ミルティウス橋の戦い』はひとつの画面の中に橋の上と下の両方で戦闘が行われていて、その場面がぐるっと一周している。右上の橋が崩れているところから人も馬もものを落ちている。その落下の先には驚いている兵士、そして左へ目を移すと黄色の服を着た後姿の兵士が仁王立ちで槍先を敵へ向けている。さらにその上は槍が林立し、再び橋の上へと視線が移動していく。
『アッツ島玉砕』も折り重なる兵士の塊が上下に分かれているように見える。左端の銃を振り上げている兵士を見ていると、そのまま視線が右側の銃剣を右へ向ける兵士たちの方へ動く。すると、銃剣を下へ向ける兵士にぶつかる。この兵士の剣先から下へ移動しすると、戦闘の流れが今度は左へ向かっているような錯覚に陥る。
また『ミルティウス橋の戦い』には馬上の兵士を含めてやや立ち姿的な人物が3人(槍を向けられている人を加えれば4人とも言えるが)。『アッツ島玉砕』も銃剣を振り上げる人、下へ向けている人、撃たれたのかのけぞったいる人の3人である。この立ち姿の人物バランスも似ている。
次はパオロ・ウッチェロ『サン・ロマーノの戦い』。これは1432年のフィレンツェ共和国軍とシエナ共和国軍の戦闘である。ここにあるのは3連作の中の一枚。
画面下には馬と兵士が倒れ、その上で両軍が激突している。『アッツ島玉砕』も倒れた兵士たちが折り重なり、その上で日米両軍が激突している。
3枚目は、ダ・ヴィンチ『アンギアーリの戦い』。ただしこの絵はルーベンスの模写である。もとのダ・ヴィンチの絵は未完成。が、その未完成作品は半世紀以上公開され、その後他の壁画で覆われてしまった。ゆえにオリジナルは見ることができない。アンギアーリの戦いは15世紀半ば、フィレンツェ共和国軍とミラノ公国軍の間の戦闘。
この絵も馬を挟んで上下に人の戦闘シーンが分かれている。しかも、その戦闘中の兵士の顔はリアルで迫力がある。『アッツ島玉砕』の藤田が描く日本軍兵士の顔とそっくりだ。明らかに藤田はダ・ヴィンチの描く顔に影響を受けている。
(3)『サイパン島同胞臣節全す』と西洋歴史画
この作品の参考にしたとよく言われるのは次の2枚の絵である。
ドラクロワ『キオス島の虐殺』。1822年にオスマントルコ統治下のギリシア・キオス島の住民が独立を企て、これをトルコ軍が鎮圧するために一般住民を虐殺したという事件だ。この絵を参考にした藤田はサイパン島での戦闘は一般住民をも狙ったアメリカ軍の「虐殺」だと認識していたということになる。
最期の時が近づき、諦観した表情の住民。体を寄せ合う男女と子どもの姿。画面の住民たちの構成は左右2つのピラミッド型になっているという指摘がある。『サイパン島同胞臣節全す』も中央に体を寄せ合う島民たちが3つほどのピラミッド型に構成されている。諦観した表情もドラクロワのそれと似ている。
アリ・シェフェール『スリオート族の女たち』。ここに描かれた女性たちと子どもたちは、そのまま藤田の作品に生かされていると言っていいだろう。
もう一枚見てみよう。
アントワーヌ・ジャン・グロ『レフカス島のサッフォー』。古代ギリシアの詩人・サッフォーが青年との恋に破れ、崖から身を投げようとしている場面である。
『サイパン島同胞臣節全す』の右端を見ると絶望して海に身を投げようとしている女性がいる。崖の端にいる両手を上げる女性と手を合わせている女性の2人がこのサッフォーと重なる。
(4)歴史画の巨匠を生み出す
こうして藤田の戦争画と西洋の歴史画の共通点を探っていくと次の藤田の言葉が強く迫ってくる。
「私の四十余年の画の修業が今年になつて何の為にやつて居たかが明白に判つた様な気がした。今日の為にやつて居たんだつたと言ふ事が今日始めて明白になつた。今日腕を奮つて後世に残す可き記録画の御用をつとめ得る事の出来た栄光をつくづくと有り難く感じるのである。右の腕はお国のために捧げた気持ちで居る。(中略)戦争画に於いて立派な芸術品を作り出す事は不可能な事では無く、又吾等は努力して作り出さなければならぬ。日本にドラクロア、ベラスケスの様な戦争画の巨匠を生まなければ成らぬ」(林洋子『藤田嗣治 作品をひらく』名古屋大学出版会 p419)
この藤田の夢は手触りのある夢だった。それを戦後の日本人は足蹴にしてすべて破壊してしまった。
しかし、今からでも遅くはない。
戦争画に対する「のけ者」扱い、「捻じ曲がった擁護論」、意図した無視・・・これらを払いのけ、戦争と戦争画そして藤田嗣治に正面から向き合えば、この藤田の手触りのある夢は実現可能である。