保冷鞄

天気のいい日だった。もうすぐ夏が来るから、夏服を買わないとなと思っている。
電車に乗る。車掌のいる部屋に、車掌のものであろう保冷鞄が置いてある。
好きな掌編小説に、本屋に果物の爆弾を置いて、浮いたような気持ちで帰宅するものがある。あの保冷鞄に入っているものが何であったら、私の今この瞬間は小説になり得るだろうか?

うーん…冷やさなきゃいけないもの、もしくは、弁当箱程度の大きさのものであろう。しかも、彼の人が仕事中に持ち歩いておきたいようなものだ。

比較的即座に思いつくのは、拳銃だ。戦後、と呼ばれて久しく、如何にしてその戦後を抜け出そうかともがいているこの国ではフィクションの中だけのもの。ただ、なぜ彼の人は拳銃を持たなきゃいけないか、に説得力が欲しい。ヒットマンである、というのはどうだろうか。これまた一般の人間には(一般とは何か、一般に正しそうに語られていることを寡聞にして知らないが)想像がしにくいが、フィクションにおいては比較的気軽に用いられる職業だ(職業とは何かについて、明確に理解していないため、ひとまず職業と呼称する)。
その仕事、とりわけ離脱の素早さと、ダブルワークに対する畏敬の念から、ヒットマン界隈において快速特急の名前を恣にする、彼の人。電車の中からの銃撃であれば、証拠が高速で動くために隠蔽がしやすいメリットがあるのではないか?そして、次の駅での交代に乗じて姿を隠す。うん、悪くない。が、おそらく銃撃があった瞬間に電車は止まるであろうし、そうすると逃げ出すのは非常に難しい。この国の警察はそこまで堕落していまい。

そうなると、あるいはまだ小さいペンギンの赤ん坊を隠している、というのはどうだろうか。氷を入れておく必要があるし、まだ小さく不安がってしまうだろうから家に置いていくわけにもいくまい。彼の人が、たまたま見つけたペンギンを保護している、というのは非日常的な日常を描く漫画のようで愉快だ。うん、そういうものを人間は時々見る必要がある。いやしかし、この瞬間が小説たり得るために、一定の説得力は必要そうだ。そして、弁当箱に入ったペンギンは息苦しく、可哀想である。たまたま見つけたペンギンを保護するような優しい彼の人がそんなことをするとはあまり思いたくない。この線も無しにしよう。

ううむ。冷やすこと、そして小さいものであることを一旦無視してみようか。何が入っていると私は嬉しいか。

自転車はどうだろう。弁当箱に入らないのではないか、と思われる向きもあるだろうが、最近のテクノロジーはすごいと聞く。意に沿って会話するプログラムや、勝手に目的地まで連れて行ってくれる移動する車が出てくる時代なのだ、そろそろ、弁当箱サイズに折りたためる自転車が出ていてもそこまでおかしいことではなかろう。それに、普段は電車の中で仕事をしている彼の人が、弁当箱に詰めた自転車で自由に走る姿はおそらく痛快であろう。決められたレールの上ではなく、舗装された道路を、小さな川を、畦道をも、彼の人はその制服をはためかせて走る。時々、鮮やかな緑の山を眺めて、普段の職場である電車に想いを馳せるだろう。
ううん、これも、彼の人がところ構わず鮮やかに走る姿は非常に気持ちのいい話だし、ある程度の意外な組み合わせらしさは感じられるが、どうしてもお弁当箱自転車が、気になる。どうしたって、リアルじゃない。彼の人は大人だし、この世の中には質量保存の法則がある(らしい)。
うぅ、せっかくの小説になり得る瞬間を考えているのに、私の頭はどうしても現実を離れきってくれない。それがひたすらにもどかしい。

いや、だからこそこうして妄想の世界に浸ろうとしているのではないか。悪くない、悪くない。

妄想の世界に浸るためにも、現実世界をよく見る必要がある。幸いにも、今日は青空の気持ちいい日だ。外を眺めてみる。ひとしきり考えてみた頭と、飽きるほど操作している携帯端末で疲れた目を癒すには向いている。

さぁ、次はあの保冷鞄に何を詰めようか。今、この瞬間はすぐに過ぎ去るが、「保冷鞄に何を詰めるか」という私の問いは、どこにでも持ち運ぶことがもう出来る。勝手な設定を押し付けられている彼の人には申し訳ないが、今後とも、私の脳内で獅子奮迅の活躍をしていただこう。

電車を降りる。彼の人がどう振る舞っているのかを見忘れた。

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