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7.美醜価値基準判断はどこの誰の基準?

少々気恥ずかしいですが、時々、整形疑惑が出るほどに、私はクッキリ二重で濃い顔なので、最近は【美人】と認識くださる方がいます。

ええ、『最近は』です。
数十年の内に美醜の流行が変わったんですかね?
どうやら大器晩成のようです。

童顔で小柄なので、幼少時や若い頃は「(喋らなければ)かわいい」と言われることは時々ありました。
でも、ヤンチャな同級生から「アンタはブス!」と言われたし、職場でも男性から平然と「おい、ブス」と言われていました。
そのためずっと、自分はブスだと認識し、美人とは無縁の道を生きてきました。

家庭でどうかといえば、両親からもですが、弟達からもどんなに激しい喧嘩になっても「ねえちゃんのブス!」と言われたことはなかった気はしますが、やはり他人の視点での判断を鵜呑みにしていた訳です。

ですから、ある日突然、40近くなって突如起こった『美人褒め攻撃』は嬉しい反面、なにぶん「私はブス」と認識していた長期政権が脳内にあるので、当初は慣れなくて、真っ向から抵抗しまくっていました。

この頃は多少慣れて「ありがとうございます」と答えるほど図々しくなりましたが。
だからとて、今、自分は美人だと自惚れる気もありませんけどね。

ふつう、人はどこでその判断を決めるのでしょう?

『あたしンち』のみかんで考えてみました。
お気付きの方も多いと思いますが、自分の外見に多感な高校生とはいえ、美醜ネタは『みかん、美への道編』としてベスト版特別編を出版してほしいぐらい割と定番です。

たぶん…
オリジナル版の1巻から炸裂するほど、みかんに自分の母が『ブス』だという強い思い込みがあるからかもしれません。

自宅に遊びに来る友達に「うちのお母さんすっごいブスだから」と注釈します。
母を見た友達が「超ラブリー」と褒めても「どどどこがあ〜〜〜⁉︎」とおののきます。
さらには「あんなにブスなのにい〜〜〜!」と力説する姿は迫力すら感じます。

そこには「お母さんがブスだから私もブスなのかも」という無意識の恐れが隠れていそうです。

オリジナル版の3巻に、親戚のおじさんらしき人から「お母さんに似てきた」と指摘されてショックを受けるみかんの姿もありましたしね。

本編自体にはない私の想像ですが、もしかしたら幼い頃に「みかんちゃんのお母さんはブスね」と失礼な声をどこかで耳にして、潜在意識がそう認識しちゃったのかもしれません。

ちょっとおもしろいので、少し追いかけてみようと思います。

朝日新聞出版 けらえいこ
あたしンちベスト1巻(母じょうねつ編)
『友だちつれてきた』9ページより

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