受け取る側
私は長らく、自分は何かを受け取る側の人間だと思っていた。
というより、今も、そちら側の人間だと思っている。
誰かが素晴らしい作品を創り出す。
私はそれを受け取って、眺めて、甘受して、満たされていく。
その役割はきっぱりと分かれていて、二つの世界は交わりはしない。
ずっと、その作品たち、小説であれ、写真であれ、映画であれ
その素晴らしさを「どう」受け止めるかが私の課題であった。
それを誰かに伝えるための「言葉」が先にあった。
*
時折、また受け取る側に戻るべきなんじゃないかと
私の居場所はそこにあるのではないかと思うことがある。
その方が甘美であり、揺蕩う小舟に乗っていられるじゃないかと。
今、映像や歌を、真っ新な心ですっと取り込んでいる。
水を飲むように、息をするように、自然に心赴くままに。
反して、なぜだか、文章をしばらく読めなかった。
きっと何処かで、今自分が書けていないのに
言葉だけは、受け止める側に回りたくないと拒否するかのように頑なに。
そんな折、夢の中に連れて行ってくれるように
久しぶりの読書にいざなってくれた。それは、haccaノベル
心地よい風が流れて「ときめき」なんて言葉を思い出した。
忘れていた素直な気持ちが動き出す。
*
あなたの紡ぐ言葉がすきだ。
伝えてくれたその一言で、一条の光が射して、私は引き留められるんだ。
そんな矢文が来ると、はっとして遥か上にあった水面を思い出す。
何処かで「何かを書く私」が息を吹き返してみたりする。
どうしてかな。嬉しい。
微かな糸が私を掴んで離さないでいてくれるのだけど
本当の私は今、どうしたいのかまだ決めかねている。
でも、何か表現するということは、生きてる実感が湧くね。
勝手だな、私は。
いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。