話すまでに11年かかった3月11日
何で私の震災体験を語るのが今年になったかは、多分10年という節目から1年過ぎて、二桁かつ中途半端な年数になった、という
「まあ少しくらいは風化しただろ」
という、経年への甘えだ。
そして、今年の3月11日を過ぎてからでないと話す気になれなかったかと言えば、私が
「東日本大震災後でポジティブになってしまったから」
なのだ。
そんな人間はほぼいないと思うし、それよりも艱難辛苦を何とかしのぎ乗り越えてきた人々に失礼だとも思った。
あとはあまりに衝撃的で、皆の記憶に焼き付いてる体験や、生なりTVで見た光景がずっと過去になってない気がしてたからだ。
だから、私なりに口が重かったわけで。
当時の私の状況というのは、本当の引きこもりだった。
というのも、精神障害が悪化して妄想が入ってしまい、婚家から実家に帰郷していた。
しかし正直なところ静養とは言い難い生活で、急ごしらえの何もない部屋で、弟のお下がりのPCとモニタをもらって、一日中ネットゲームに全てを傾けていた。
妄想の内容は
「いつか私はパケホーダイの使いすぎで、国家転覆罪で逮捕される」
「でも、刑務所で共同生活をして、整列や行進、作業などできるわけがない(刑務所での生活は、花輪和一の「刑務所の中」で覚えものだ)」
「私程度の症状では医療刑務所には行けそうない…」
と、刑務所の中での生活に恐怖を抱えながら、鳩山総理の国会答弁が頭をぐるぐるとしていた。
それが2010年の初夏。
それから8月に、とあるネットゲームにハマり、それに全力集中をしていれば妄想から逃れられるのがわかり、他にプレイヤーさえいればずっとプレイしていた。
その他になにもすることがない…というよりは、妄想にとらわれて何もできないわけで、やり続けているしかないのだ。
もう時間感覚など失われ、起きたら午後9時だった時には
「さすがに廃人すぎやしないか?」
とは思った。
そして11月くらいに、ふと、平時でも妄想が消えていることに気づいた。
ネットゲームへ集中力の全てを注ぐことで妄想を消す、というのも大層な荒療治であるが、結果オーライだ。
それでも外出することへの恐怖感は残ったし、新たに湧いてきた
「自分は何も生産できぬし、消費行動などもしないのだから、この家から出ずに朽ちてしまいたい」
という感情で、空腹を覚えることに嫌気がさしたし、同時にマトモな食事を取ることも嫌だった。
ちなみに袋入り生麺を、1パックを袋から取り出し、焼きそばソースの粉をそのままふりかけ、サンドイッチのように食べるのは案外おいしかった。
今食べてもおいしいのでは?と思う。
クリスマスも正月も卵かけご飯を食べつつ、降り積もる雪なども見ながらずっとネットゲームをし続けた。
しかしまあ上達しなかった、本当にしないので、弱者プレイヤーとして名を馳せた。
それで3月9日の昼間、寝ている最中だったが、関東とはいえ(言い忘れていたが、私の実家は栃木に随分近い埼玉だ)ずいぶんと強くて長い揺れだな、と思い目を覚ました。
春休みに入った、大学生のネットゲームの常連たちでオンラインだった面子は、今のは強かったね、とか、大丈夫?とか言い合っていた。
それがあっての3月11日だった
その時はゲームがメンテナンスだったから、常連が良く集まっている小さなSNSを見ながらぼんやりしていたら、一昨日のような揺れがきた。
まあ、そのうちおさまるだろ。
と、座椅子に座ったままでいた。
が。
おさまらない。
こんなに長時間ゆれるのは初めてだぞ?
とにかくこの地震は体験したことがない!!
そう思って部屋のドアを開けると、家の中そのものが揺れていた。
左右にギコギコとユラユラを足したような、そんな感じ。
これ以上のことがおこるのかよ?!
その恐怖で思わず階段を全力で駆け下り、廊下から玄関の扉を突進する勢いで開けて外に出た。
出たら出たで電線がたわみながら動いていて、気が気でなかったが。
大きい揺れは収まったものの、数分おきにユラユラとするので、着の身着のままで出たため、寒いなあ、と思いながらぼんやりしていて、気がついた。
ああ、外に出ちゃうんじゃん。
とっさの危険やら危機的状況、逃げるじゃん。
そう思った瞬間、朽ち果てたい願望と外に出ることへの恐怖感が、一気に薄れてしまった。
その願望が限りなくゼロになったのは、TVの報道で
「1000年に1度の大震災」
とニュースキャスターが読んだときに
「1000年に1度の災害に見舞われて無事だったなら、もう生きるより他ないよな…」
という、相当受動的かつ消極的に
「生きる」
という行為に自覚的にならざるを得なかったからだ。
そして、外に出ることへの恐怖がほぼゼロになった理由は
「卵がない」
である。
当時、毎食ほぼ卵かけご飯で、他に食べるものがさっぱり思い浮かばず、むしろ卵かけご飯でないとたべられない、という状態。
そんな中、震災で物流どころか供給がないのだ。
すると逆にどうしても卵がないとダメだ、と思った、というか思い込んでしまった。
そして、近所のコンビニやスーパーを自転車で走り回った。このあたりは精神疾患にかかる前からあるので、余り理解者がいないが、そういう思考回路なのだ。
これが功を奏し、卵が見つからない時は、店に並ぶのが早かった、マイナーな会社から出しているレトルトカレーが口にできるようになった。
ほぼほぼ離乳食である。
そして卵が一番最初に店頭に並んだのは近所のディスカウントストアで、店頭に並ぶと同時に売り切れてしまうので、販売する曜日と時間まで覚えた。
ここまでくると、卵への欲求でなく執念だ。
世の中が悲嘆にくれて、ネットには地震の瞬間やその後の痛ましい画像が溢れ、TVでは新たな死者数や、避難所で毛布にくるまっても寒そうにしている高齢者が映し出される中、私は
「自分を取り戻すきっかけと理由」
になっている。
そのことが後ろめたかったし、回復の理由がそれでいいのか?不謹慎ではないか?と素直に喜べないし、そもそもが凄惨な出来事が自分にとっては喜ばしいなんて、言えるわけがない。
だから、言えなかった。
当時の状況や、何をしていたか、その後どうしたか、は言えても、内心を語るのなんてとんでもなかった。
被災者から見れば、今だって、そんな奴いてたまるか、と思う人もいるだろう。
ただもう、私だって荷を下ろしたいんだ。
大災害が、私にとっては喜ばしい、そのことに。
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