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平成22年に第二次世界大戦が終わった人の話

黙祷代わりに。

夫の母方の祖父は、戦没者だ。神戸の生まれ育ちの人で、祖母と結婚してから大陸に渡り、満州鉄道の職員として働いていた。それは第二次世界大戦の末の話だ。

昭和20年に日本は敗戦国になった。その時、2人には2才になる息子と、祖母のお腹の中には子供がいた。お腹の子が後の夫の母で、私の義母にあたる。

直後、義祖父(以下、祖父)はソ連軍の捕虜になり、シベリアに収容された。

シベリア抑留のうちの一人になったのだ。

義祖母(以下、祖母)は、息子と生まれたばかりの義母(以下、母)を連れて満州から日本の親戚の家まで引き揚げた。実家には帰れなかった。アメリカに占領されたから。

引き揚げの最中、息子は亡くなった。生きていれば叔父にあたる人だった。

本州の親戚の家で何年か祖母と母は暮らし、実家が日本の領土に戻り、祖母と母はようやく実家に帰った。曽祖父母は健在だったが年老いていた。祖母は家業を継いで、自分の両親と子を養った。

祖父がどうなっているかは、日本政府さえ知らない。

そうやって時は流れ、母は結婚し家を出た。後に私の夫になる子や、そのきょうだいが産まれた。しかし、祖母と曾祖母、どちらも介護が必要になり、母は別居婚を選び、子どもたちを連れ、実家に戻った。自分の母がしたように、親と子を養った。子のうち一人はいい迷惑だったと言っているにせよ。

数年後、祖母が亡くなった。

そしてある日、祖父を知る人から母宛に手紙が届く。

「この人はあなたのお父さんではないですか?」

同封してある新聞は、シベリア抑留戦没者名簿で、カタカナの祖父の名前に蛍光ペンが引いてあった。祖父の名前は珍しい。母はすぐさま書類一式を揃えて提出した。それが受理され、ようやく祖父は日本国民として死亡したと認められ、戸籍から正式に除外された。母の兄も同時に。

それが平成7年。

その後、ロシア政府がシベリア抑留死亡者の遺骨を遺族に返還すると発表した。

それを知った母は、DNA標本を提出した。

該当者の中ではかなり早い方と思うが、10年経たず、DNAが一致する骨、つまり祖父の遺骨が見つかったと報が入る。

私はこの時既に義理の娘で、夫と2人で暮らしていた。小さく平成19年10月と右下に手書きした、遺骨受け渡しの瞬間の写真が、私達の住まいに送られてきた。

そしてそれから3年後、外務省から母宛に書類大の封筒が届く。

ロシア政府がシベリア抑留死亡者の死亡診断書を公開したため、遺族に送付しているという外務省からのお知らせと、診断書のコピーが封入してあった。

その時には私も嫁ぎ同居していて、夫も義母も外国語どころか文字を読むのも苦痛な人だったから、私が手書きのロシア語を翻訳した。死亡年月日、死因が結核、医師が確認した旨と、医師名が記載されているのはわかった。それを義母に告げ、診断書を返した。

義母は涙をこぼしながら、良かった、誰かが死んだ姿を確認してから埋めてくれたんだ、と言い、また泣いた。

そして、死亡診断書を胸に抱え

「私の戦争は、今終わりました」

と明瞭な声で言った。

義祖父の享年は36才だ。夫も私も、その年齢以上になってしまった。上の代の没年齢より年上になるというのは、何とも苦い気分になる。そして、義祖父母、義母より重いものを私達はまだ背負っていない。

それが平和というものかもしれない。


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