【経験と知識についての考察】場に共有されると経験は知識に変換される

 哲学の時間でございます。

 たとえば私たちは「水」というものを、「感じた」ことがある。
 もっと具体的にすれば、私たちは「水道水」を「感じた」ことがある。
 「水たまり」も「感じた」ことがある。

 では「H2O」はどうだろう。私たちは、「H2O」を「感じた」ことがあるだろうか? もしあるとしたら、いつ、どのように「感じた」ことになったのだろうか? 

 私たちが「水とは何か」と尋ねられて、考える前に私たちの直感に訪れるのは、「あの、水の感じ」であって、「H2O」という観念ではない。

 「H2O」はあくまで物質の定義であり、先人たちが名付けたものである。私たちが「水」だと思っているものを、微小の世界として扱った場合、それは「H2O」と表現するのがふさわしかったのである。(一酸化二水素を意味する表現。原子論的表現)

 H2Oと水は、つながってはいるが、一致してはいない。私たちは純粋なH2Oでないものを「水」と呼ぶし、そもそも気体や固体となったH2Oを私たちは「水」とは呼ばない。

 ただ私たちは、水が凍ったり蒸発したりするのを見て、私たちが「水」だと思っているものは「H2O」である、と観念的に結びつけることができる。

 私たちはH2Oというものを「感じた」と言い切ることはできないにしても、それが何なのか化学的な知識として、ぼんやりと「知って」いる。

 日常生活のあらゆる言葉にも、これと同じようなことが言える。
 私たちが「感じた」ことのある語は、語全体から見ると、ほんの少しに過ぎない。ほとんどの語は、別の誰かが定義した「扱われる語」である。「情報の共有のための語」「印としての語」である。

 人との会話が通じないとき、片方にとって「感じたことのない、語として語」であることが、もう片方にとって「実感を持って知っている、存在としての語」であることがある。
 たとえば、ある芸能人について二人が話しているとき、片方はその芸能人と実際に会って二人きりで話したことがあって、もう片方はテレビでしか見たことがないとしよう。
 まさにこれが「実感があるか、ないか」という違いである。
 それが存在しているということを「感じている」と「知っている」の違いである。
 私たちはそのギャップに混乱するのである。

 私たちにとって「感じたことのあるもの」と「知っているもの」の境界線はあいまいで、私たちは「知っていること」を「感じたこと」にしてしまうこともできるし、逆に「感じたこと」を「知っているだけのこと」にしていまうこともできる。

 私は「感じる」と「知る」を区別して、情報を扱っていたい。私たち現代人は、知識としてはいろいろなことやものを知っているかもしれないが、そのほとんどを「感じて」はいないのだ。そして、自分が個人的に「感じた」ことを過大評価して、他人が「感じた」ことを、無視ししようとする。そういう傾向を持っている。

 私たちは、文明の中で生きているが、その認識の傾向自体は、原始人と大して変わらない。
 大きなものを一度でも「感じる」と、「知る」ということを全て見下す傾向にある。だが、その傾向はあまりよろしくない。

 「感じる」ということは大切なことではあるが、それはあくまで「自分が感じること」であって、他の人にとっては「あいつが感じること」でしかない。つまり、その他者にとって、あなたの経験は「知識」でしかないのだ。

 私は他者の経験、つまり「他者が感じたこと」を、自分の感じたこととできる限り同列に扱うようにしてきた。
 私は私の「知識」と私の「経験」を、できる限り一致させようと努めてきた。そしてそれは、確かに一致しているのだ。私の感覚は、私の知識を保証するし、私の知識は、私の感覚を援護する。

 自分の「感じたこと」を、他の人が「感じたこと」と、同様のものとして扱う。
 これができる人とできない人では、明らかに人間としての程度が違うと思う。

 私は私の経験が全て、他者にとっては知識でしかないことを自覚している。場に共有される言葉は、必然的に経験ではなく知識に置き換わってしまうのだ。

 ならば重要なのは、そこに刻まれた知識が、経験からもたらされたものなのか、単なる知識が知識になっているだけなのか(つまり人から聞いて、考えただけのことなのか)判別することなのではなかろうか。

 私は場に共有されない経験を重んじる。それが自分のものであっても、他者のものであっても。
 それが人生というものであるからだ。

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