私は動物のような人間に好意を抱く

 現代社会には少し珍しいタイプだが、私は動物のような人間が好きだ。

 自分の欲望に忠実で、あまり物事を深く考えず、目に見えるものだけを信じている。

 そういう人と関わると、私は少しほっとする。犬や猫と戯れた時と同じような感情を抱く。暖かい、愛情のようなものを感じる。

 具体的に言うと、穏やかなタイプの精神障害者や、もうほとんど会話が通じないお年寄りみたいな人たちのことだ。私は彼らが大好きだ。

 彼らは、自分を傷つける人間のことが嫌いで、そうじゃない人のことがみんな大好きだ。だから私のことも無邪気に好きになってくれるし、私の嫌がることはしないでくれる。
 彼らは気遣いというものができないから、思ったことをそのまま言うし、やりたいことをそのままやる。
 性欲も食欲も睡眠欲もすごいけれど、よく躾けられているので、取り返しのつかないようなことはしない。怒られたらしょんぼりするけど、すぐに忘れて機嫌を直す。

 私が何を言っても、ほとんど内容は届かない。だから、私自身も、気を遣う必要がない。好きなように関わることができる。
 私は彼らといると、癒される。


 それとは真逆の人々のことも、好きだ。つまり、私と同等かそれ以上に精神が明るい人たち。ものごとを曇りのない眼で見据え、細やかな気配りができる、素晴らしい人たち。
 こちらは動物的人間よりさらに数が少ないけれど、時々会えた時にはとても楽しく会話ができる。でも私たちは互いに分かりすぎてしまうから、あまり長い時間を一緒にいられないし、一度の失敗を引きずりすぎてしまう。
 お互い別の土俵に立って、別の目標に向かって進んでいるから、共に歩くことはできない。私たちは孤独を運命付けられているのだ。それでいい。


 その中間に属する人たちに対して、私は苦手意識を持っている。彼らは中途半端に物事を考え、中途半端に物事を記憶し、中途半端に物事を判断する。
 彼らは私が驚くような意味不明な誤りを犯す上に、いつも自信満々で、自分より低い人間を容赦なく見下す。見下して、同情して、気持ちよくなろうとする。
 その中途半端な理解力で私を高く見積もって嫉妬したり、低く見積もって嘲ったり、私を不快にさせることに関しては奇妙なほど長けている。
 というか彼らは、何が人を不快にさせるかということも中途半端にしか考えられないから、的外れな気遣いや気配りをして悦に浸り、それだけでなく、同じことを相手に要求したり、また別の対価を払わせようとする。(たとえばの話、私は誕生日プレゼントなんていらないし、貰ってもそいつの誕生日なんて知らないから返せない。そのことで腹を立てられても、困るだけだ。どんだけ自分勝手なんだ、と思う。彼らは彼らの自分勝手さを自覚していない。対価を見込んで贈り物をするなんて、贈り物という素晴らしい感情的文化に対する犯罪的侮辱だ)


 考えるなら、徹底的に。考えないなら、一切考えない。
 私はそういう態度が好きだ。その方が健康的だし、穏やかでいられる。
 実は、その両方を持った人間が一番好きだ。とても賢くて、とても愚かな人間が、大好きなんだ。

 その中間はいらない。私はずっとそう思って生きてきた。中途半端に考えることが一番苦しい。中途半端に他人と関わっていることが一番苦しい。

 中途半端に人と合わせるのが一番疲れる。
 私は、完全に私であるか、完全に私を消すかのどちらかでありたい。

 中途半端さを「人間らしさ」と呼んだ連中を、私は憎む。

 神や悪魔などの極端な概念こそが、本来の「人間らしさ」であったはずなのだ。だってそうだろう? それらは、人間産み出したものなのだから。人間なしでは存在しなかったものこそが、真の「人間らしさ」であり、極端さを排除した中途半端さを「人間らしさ」と表現するのは間違っている。それはどちらかといえば「人間の醜さ」や「人間の弱さ」に属するものだ。

 彼らがそのような低劣な「人間らしさ」を褒める時、私は彼らが「あいつもやっぱり俺たちの仲間だ!」と言って安心しているように見える。

 気分が悪い。そのような「人間らしさ」など捨ててしまえ!

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